「新人会」は、「大正デモクラシー」の立役者・吉野教授に師事した法科大学弁論部の赤松克麿(のち衆院議員)と龍介ら3人が中心となって1918(大正7)年に結成した社会運動組織。将来を約束された高学歴の超エリートたちが社会運動に加わったことで社会に衝撃を与えた。「解放」は赤松が卒業後、入社した東洋経済新報社が発行しており、その関係で龍介が編集を担当していた。
東朝の記事は続く。
元気で率直な年下の男性に感激
その頃、宮崎君はまだ大学法科3年。「新人会」の黄金時代で、宮崎君はその中心として活躍。若く、あふれるばかりの元気に満ちていた。1919年1月末、白蓮女史を訪問。現在の「生」に対する心の底の悩みを打ち明けて語るべき人を周囲に持たなかった夫人は、宮崎君の元気で率直な態度にひどく感激した。冷えきっていた心の奥土に新たな芽生えを感じてきた。そのあくる日も、またそのあくる日も夫人と宮崎君は別荘で語り合った。2~3日滞在して帰京する日、夫人は同じ門司行きの列車で小倉まで見送った。車中で並んで腰掛けた夫人は初めて、生に対する苦悶の叫びを発したと言っている。
東京に帰った宮崎君宛てに夫人からの手紙が「解放」の編集室に届いた。2通、3通と1日も欠かさなかったので周囲のうわさになった。夫人の情はだんだんと熱くなり、詩才に任せて宮崎君の心を搔き乱した。「南無帰依仏まかせまつりし一筋の心としらば救は(わ)せ給へ(たまえ)」「伏姫の犬にてもよし誠あらば身を寄せむ(ん)とし思ふ(う)一時」と、愛を求める悲痛な声はこの頃の夫人の歌として世に表れた。
傳右衛門夫妻は年2回、春と秋に上京していたが、4月のある日、白蓮夫人は柳原の実家に行くと言って宮崎君宅を訪ねた。二人の関係は、もはや何者も破壊する力を振るえないほどになっていた。その後も二人の姿は日比谷で、銀座で、あるいは京都や神戸で見かけられたともいう。「指鬘外道」の本読みで二人が同席した写真が新聞に載った。
東朝はその龍介にもインタビューしている。
「燁子を救ってやるのは僕の義務です」
宮崎君の告白 燁子を救ってやるのは僕の義務です 親爺には叱られるだろう
相愛に結ばれた白蓮夫人と宮崎君は、これから後は行くべきところまで行く覚悟だろうが、宮崎君はどう考えているのか。21日、小石川関口町(現文京区)の事務所に同君を訪ねると、やや驚いた態度で語った。
「いまさら隠しても仕方がありません。燁子との恋愛関係について僕は決して否定しません。3年前、別府で脚本刊行の交渉以来、知り合いになり、僕らの間に自然とある親しみを抱くようになったのです。燁子も可哀そうだと同情します。
10年間、伊藤家にあってさいなまれた生活は、今日の燁子の自覚の前提だから、私はむしろ伊藤家に感謝してもいいだろうと思っていますが、燁子は賛成しません。それだけ10年の荒れに荒れた生活の痛苦がしのばれます。あるいは制裁に触れることがありましょう。しかし、僕はどこまでも救ってやりたい。僕によって生きていこうとするならば、救っていくのは僕の義務です」
「燁子は至って聡明な女だと思っています。無論いまとなっては、われわれは行くべきところまで行くつもりです。燁子はどこに行ったか、僕としては行く先は知りませんと言うよりほかお話は致しかねます。ただ今後、いろいろな障害が襲ってくると思いますし、第一、僕の親父などはあの通りの頑固者ですから、頭からどやしつけられると思っています。事件が全て円満に解決するまで、僕としても考えなくてはなりますまい」



