この事件の報道は、第一報段階では東朝の完勝だった。東朝と同じ日付の大阪朝日(大朝)は「『筑紫の女王』伊藤燁子 傳右衛門氏に絶縁状を送り東京驛(駅)から突然姿を晦ます 愛人宮崎法學(学)士と新生活?」の見出し。文章も構成も違う。併用写真も、白蓮と傳右衛門の結婚式当時のツーショットは共通だが、大朝は白蓮の短歌の色紙の写真をトップに置いている。

 他紙にも登場する「筑紫の女王」とは、3年前の1918(大正7)年、筑豊炭鉱の贈収賄事件に絡んで大朝が同年4月11日付朝刊から「筑紫の女王」のタイトルで白蓮の半生記を10回連載したことから白蓮の代名詞となっていた。

「筑紫の女王」連載第1回(大阪朝日)

 ほかの新聞も手をこまねいていたわけではなかった。「赤銅御殿の白蓮脱走」も21日夜に東京日日新聞(東日=現毎日)が関係者に取材に来たことを記している。東朝と同じ22日付朝刊で東日は「白蓮夫人と伊藤氏との別れ話 周囲の人は否定するが『事實(実)』だと關(関)係者の一人」の見出しで社会面2段で報道。

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東京日日は「別れ話」として報じた

 國民新聞(國民)も「片瀬の白蓮女史に不思議な家出の噂(うわさ)」の記事。白蓮は神奈川県・片瀬(現藤沢市)の歌人・吉井勇の別邸に行っていると書いている。吉井勇の妻は柳原義光の次女で白蓮の姪だった。東日、國民ともうわさを聞いて取材したが、真相にはたどり着けなかった。

 福岡の地元紙、福岡日日新聞(西日本新聞の前身の1つ)10月25日発行の夕刊では同紙の東京の編集長とみられる「23日朝 在京一記者」が「燁子の事件」で発生当時のことを書いている。それによれば、21日の夜半に宿直から重大な電報が来たと電話で知らせてきたが、真夜中でどうすることもできず、社会部の総動員を命じた。

 22日朝になって宿直が「朝日が全面埋めている」と言ってきた。まず白蓮夫人がどこにいるか、思いつく関係者のところに記者を行かせたが、どうしても分からない。他社が夫人を探し出した場面が頭に浮かんできた時、「飯塚」という人物から電話が。「燁子女史のいる所を申し上げます。他社にはそちらから連絡してください」という内容で、「双肩を圧していた重荷が一時に取り去られたような気がした」と吐露している。

白蓮の「絶縁状」を掲載

 東朝は続く22日発行23日付夕刊(当時の夕刊は翌日の日付をとっていた)も連続スクープを放った。「傳右衛門氏へ 燁子最後の手紙 悶えの過去を顧みて涙で綴った悲痛の告白」の見出しで、大朝が「絶縁状」と呼んだ書状全文の内容を載せた。(つづく)

次の記事に続く 「女性の尊厳を無視するあなたに決別を」年下青年と恋に落ちた“大富豪の美人妻”が夫に宛てた「絶縁状」の中身《白蓮事件》

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