今から105年前、1921年10月。当時の天皇(大正天皇)のいとこで「大正三美人の一人」とうたわれた歌人の柳原白蓮(当時36歳)が、7歳年下の少壮弁護士・宮崎龍介と恋に落ち、24歳余り年上の「炭鉱王」の夫・伊藤傳右衛門(でんえもんへの「絶縁状」を新聞紙上で発表して失踪した。報道は過熱し、社会現象にまでなったが、その中でいくつかの重要な真実が見えなくなった。それは何か――。
当時の新聞記事は見出しはそのままに、本文は適宜現代文に直して整理。差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。「柳原燁子」「伊藤燁子」「宮崎燁子」などの呼び名もあるが、記事中以外、地の文は「白蓮」で統一する。(全4回の3回目)
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東京朝日(東朝)は宮崎龍介へのインタビュー(#2)に続き、翌10月23日付夕刊でも連続スクープを放った。「傳右衛門氏へ 燁子最後の手紙 悶々の過去を顧みて 涙で綴った悲痛の告白」の見出しで、大朝が「絶縁状」と呼んだ、1380字に上る書状全文の内容を載せた。


