傳右衛門の言い分は…

 21日朝、京都で下車して祇園のお茶屋「伊里」に泊まった伊藤傳右衛門氏は、何度名刺を通しても面会しなかったが、午後5時、ようやく奥まった一室に見るからに悠然とした面持ちと落ち着き払った態度で記者を引見し、「もちろん、けさの新聞で事情の大略を知ったが、このようなことが実際あるべきものとは私には思われません。燁子としても、そんな無分別なことをはたしてなし得たものかどうか、私には絶対に信じられない」と次のように話した。

「けさの新聞でいまさらに家庭のことを振り返ってみても、燁子が不愉快や不満に思う節は毛頭あるはずはないと思います。随分わがままな女です。何不自由なく、世間から天才とか何とか言われるまでに勉強もさせ、小遣いだって月50円はおろか、あるいは1万円(現在の約799万円)にも上ることすらあるくらい、あの女を伊藤なればこそ養っているなどと、人のうわさになるくらいです。もっとも長い夫婦生活中、時々は注意したり意見することはありますけれど、殴るの打つのということは絶対にありません」

「私は田舎者の無教育者ですから、燁子が住んでいる文学の世界などは毛頭知りません。だから、その点では遠慮して、どんなことをしようが、何一つ小言を申したことはありません。現に訪ねてくる人たちも無数にあり、宮崎龍介という男も訪問客の1人であったでしょうが、いささかも私の干渉しない範囲のことですから、その男のことなどは記憶していません。また燁子としても、私のやっていることは知っていまいと思う。お互いに世間が違っても、謙遜し合ってやっていくのが夫婦というものではありませんか」

「しかし、御紙がああ書かれる以上は、全然無根のこととは思えない。ことに燁子はわがまま者ですから、それが全然うそだとも思われませんので、もう一度東京に引き返そうか、どうしようかと善後策を講じています。申すまでもなく、絶縁状などは手にしていません」

 夕刊が配られると絶縁状の全文を読みながら、ゆったりとした口調で「女から絶縁状を突きつけられて、男として指をくわえているわけにもいかないから、明言し難いが、何らかの処置に出たい」と大きく笑って見せた。

伊藤傅右衛門の肖像(『白蓮 気高く、純粋に。時代を翔けた愛の生涯』より)

 伊藤傅右衛門は幸袋の貧しい家に生まれ、呉服屋の丁稚(でっち)奉公からスタート。父の後を継いだ鮮魚の行商や西南戦争の軍夫を経て、父とともに小規模の炭鉱採掘で頭角を現し、衆院議員も2期務めた。日露戦争での需要に加えて、優良炭田を掘り当てたことから「貝島」「麻生」と並ぶ「筑豊ご三家」にまでのし上がった。

 1914(大正3)年、「大正鉱業」を設立。炭鉱経営のほか銀行、教育事業にも手を出すなど立志伝中の人物として知られ、地元では通称「傅ねむ」で通っていた。女性関係も派手で、「伊里」も傳右衛門が妾の1人に経営させていた京都での定宿だった。(つづく)

次の記事に続く 「伊藤は女に殺された」24歳下の妻が男と失踪、夫への“絶縁状”が新聞に載ったわけとは…世間を騒がせた「白蓮事件」に残る謎

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