今から105年前、1921年10月。当時の天皇(大正天皇)のいとこで「大正三美人の一人」とうたわれた歌人の柳原白蓮(当時36歳)が、7歳年下の少壮弁護士・宮崎龍介と恋に落ち、24歳余り年上の「炭鉱王」の夫・伊藤傳右衛門(でんえもん)への「絶縁状」を新聞紙上で発表して失踪した。報道は過熱し、社会現象にまでなったが、その中でいくつかの重要な真実が見えなくなった。それは何か――。

よく知られた白蓮の肖像画(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 当時の新聞記事は見出しはそのままに、本文は適宜現代文に直して整理。差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。「柳原燁子(あきこ)」「伊藤燁子」「宮崎燁子」などの呼び名もあるが、記事中以外、地の文は「白蓮」で統一する。(全4回の4回目)

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 社会を騒然とさせたこの事件の報道は、東京朝日(東朝)の先行が目立ったが、抜かれた新聞の中でも大阪毎日(大毎)は特別だった。のちに旅行作家となる記者の北尾鐐之助は以前から白蓮と親しく、「日頃の伝右衛門との関係、心よせてくる男たちとの“交渉”などを縷々(るる)(こまごまと詳しく)ときかされる立場にいた」と、事件の最重要文献の永畑道子『恋の華・白蓮事件』(1982年)も書く。

 北尾が事件から間もない「婦人公論」1922年2月号に載せた「その前後の白蓮女史」によれば、失踪前日、「島屋」の白蓮に電話をかけ「片瀬に行く」と聞いていた。そのため、失踪のうわさを聞いても「頭から問題としなかった」(同記事)。東朝の記事が出ても「それでも私は信じなかった」(同)。

 しかし、白蓮の「絶縁状」が東朝の紙面で公開され、「あくまで事件を否定して、朝日に先を越され、なお社の世論に反抗して、どこまでもこの事件の抹殺に努めてきた私は、ここにおいて、断然責任を負うて社を去るべきものであると決心した」(同)。

 それでも説得されて思い直し、京都に飛んで「伊里」で白蓮の夫・傳右衛門に面会。約3時間にわたって話を聞いた。その結果は北尾の筆で記事になり、10月24日付大毎(東日にも)に載った。