『恋の華・白蓮事件』も、伊藤家で白蓮が家族間の呼び方を東京ふうに変え、支配人を呼び捨てにするようにしたとして「四面楚歌にしていったのは、むしろ、燁子のほうであったのかもしれない」と書いている。

後年の柳原白蓮。1923年、38歳のころに宮崎龍介と再婚し、2人の子供を出産。81歳で亡くなった ©文藝春秋

 もう1つ、見過ごせない問題がある。傳右衛門も「燁子に與ふ」の第4回で書いているが、白蓮が自分の身代わりのつもりか、傳右衛門に妾を世話して家に入れていることだ。いまも識者が白蓮を批判する理由の1つになっている。

「白蓮のもとに押し掛けようという筑豊のヤマの荒くれ連中を傅右衛門が一喝して止めた」という伝説がある。本当だろうか。事件の年、「おれは河原の枯れすすき」の歌詞で大流行した「船頭小唄」を、筑豊の選炭場の女性たちは次のように替えて歌ったという=伊藤時雨「うたがき炭鉱記」(1964年)。「伯爵夫人となるよりも 月の射し込むあばら家で 主さんお庭で藁(わら)仕事 妾しや(わたしゃ)お傍(そば)で針仕事」。「金より真実の愛」という圧倒的な流れに逆らえる炭鉱作業員たちがいたとは思えない。

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どれほどの社会的な意味があったのか?

 それら以上に、一体「金のために富豪に“身を売った”お姫さまが、新しい恋人ができて目覚め、逃げ出した」ことにどれほどの社会的な意味があるのか、考えた人はいなかったのだろうか。いや、いたはずだ。

 新聞でも10月23日発行24日付萬(よろず)朝報夕刊の「言論」は「興味を唆(そそ)らず」として「個性の重んじられる世なりとはいえ、婦徳からみれば甚だしく非難すべき一婦人の問題が新聞紙上、いかなる社会問題よりも重きを置かれるに至れるは実に痛嘆すべき事実にして、関係者はことごとく悪し」と一刀両断。福澤諭吉創刊の時事新報は10月28日付社説で「井端會(会)議の問題」のタイトルで、事件は井戸端会議の問題にすぎないと述べた。

「興味をそそらず」とした萬朝報の小論説

 加えて気になるのは、東朝を筆頭にこの事件の報道に漂っているのは、近代的教養を身につけたエリートが野卑で無教養な人間を蔑視する意識だ。

 確かに、「金の次は名誉」と華族の娘を妻にする百万長者は弁護できない。しかし、当時のほとんどの社会部記者は学歴がなく、着物に鳥打帽の時代に、この事件を担当した学士(大学卒)の記者たちはスーツ姿だったはず。「坑夫あがり」「一丁字(いっていじ)もない(=無学であること)」などと呼ぶ彼らの態度が、この事件をどこかそらぞらしいものにしている。そんな意識は、多少形は変わっても、過剰報道と画一化された見方と併せていまもメディアのどこかにあるのではないか。

【参考文献】
▽朝日新聞社百年史編修委員会編『朝日新聞社史 大正昭和戦前編』(朝日新聞出版、1991年)
▽永畑道子『恋の華・白蓮事件』(新評論、1982年)
▽宮崎蕗苳著・山本晃一編『娘が語る白蓮』(河出書房新社、2014年)
▽林真理子『白蓮れんれん』(中央公論新社、1994年)
▽角​伊藤時雨『うたがき炭こう記』(葦書房、1964年)

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