「伊藤(傳右衛門)は女に殺されたと…」夫が反論
絶縁状を讀(読)みて あき子に與(与)ふ【1】 伊藤傳右衛門
燁子――おまえがわしに送った絶縁状というものはまだ手にせぬが、もし、新聞に出た通りのものであったら、随分思い切って侮辱したものだ。見る人によったら、安田は刀で殺されたが、伊藤は女に殺されたというだろう。妻から夫へ離縁状をたたきつけたということも初めてなら、それが、本人の手に渡らない先に堂々と新聞に表れたというのも不思議な事だ。わしはこの記事を新聞で見て、一時はかなり興奮した。しかし、いまは少し落ち着いて、静かに考えると、おまえという一異分子を除き去った伊藤一家が、いかに今後円満に一家団欒の実を挙げ得るかということを思って、かえってわし自身としては将来に非常な心安さを感じている。
来年はわしも還暦だ。漸次年をとったから、伊藤家を合資組織にして、おまえに対するわしの没後の財産処分方法などを考えていたところであったが、それももういらぬ事になった。わしの一生の中に最も苦しかった10年を一場の夢とみて、生まれ変わったつもりで全てを立て直そう。今後手当には頓着せず、一家の取り締まりをするによい人を探し出し、女中に一切家庭上のことを一任して、静かに子どもの行く末でも眺めようと思っている。
大毎が東朝に一矢報いたというところだが、白蓮擁護の立場をとる東朝に対して、傳右衛門寄りの姿勢をとらざるを得なかったのが実情だろう。安田財閥の創始者である安田善次郎は約1カ月前の9月28日、神奈川県大磯の別邸で右翼の青年に暗殺された。傳右衛門は筑豊の金融機関である「第十七銀行」の再建で協力し合うなど、深いつながりがあった。
大毎の傳右衛門の「燁子に與ふ【1】」は続くが、要点のみ記す。
そもそも、おまえとの結婚問題からが不自然なものであった。
結婚の第一日、一平民の、おまえから言うと一賤民(社会から「いやしい身分」として差別された人々)のわしの頭に不思議に感じたことがあった。(結婚)式が終わって、自動車で一緒に旅館へ引き揚げてきた時、おまえはどうしたのか、部屋の片隅でしくしくと泣いた。
わしは実家を離れる小さい娘心の涙かと思ったが、当時“出戻り”として柳原家でかなり厄介者視されていたおまえである。この涙は、自動車に乗る時、一平民たるわしが華族出の妻を後にして少しも尊敬せず、先へ乗ったということがおまえの自尊心を傷つけ、そのために落とす悔し涙だということが分かって、実際、これは大変な妻をもらったと思った。
そういう結婚式の第一日に見せられた自尊心ないし持病のヒステリーはこの10年間、どのくらいわしを苦しめたと思う!?
去られた夫にも言い分はあるというところだろうか。この「燁子に與ふ」は傳右衛門の事後承諾の形で連日掲載されるが、伊藤家から申し入れがあり、10月27日の第4回で終わった。



