「10年同棲した夫を背負い投げ」
報知は同日付で「女性の悲み」として、現代の女性を取り巻く問題点を列挙した。福岡のもう1つの地元紙・九州日報(西日本新聞の前身の1つ)も同日付で「不純結婚の果(はて)」とした。事件に火をつけた東朝自身、「最後の手紙(絶縁状)」を報じた10月22日発行23日付夕刊の1面の短いコラム「今日の問題」で「不倫か不貞か、当世か。問題子評する言葉を知らぬ」とサジを投げていた。
識者の意見も白蓮の行動に否定的・懐疑的な見方が目立つ。作家の中條(宮本)百合子は「理解と同情の念が湧いてきます」とした(10月24日付読売)が、教育家の羽仁もと子はイプセンの戯曲「人形の家」を引き合いに「ノラとは比べものにならない」と断じた。女性運動家の山田わかも「夫人のやり方は非常に卑怯。10年同棲した夫を背負い投げしたも同然」と批判した。
事件はその後、柳原、伊藤両家がそれぞれ親族会議を開いて対応を協議。元首相で現自民党副総裁・麻生太郎の曾祖父で、傳右衛門と並ぶ「炭鉱王」麻生太吉も仲介に乗り出すなどした。その結果、同年10月31日から11月1日にかけて、東京で両家などの交渉が行われ、無条件での離婚で決着。2日付各紙に大きく報じられた。
一時は当時存在した「姦通罪」での告訴もうわさされたが、「天皇のいとこ」を被告にするわけにはいかないという判断が優先したのだろう。しかし、その後白蓮は柳原家の依頼を受けた預け先を転々。監禁状態が続いたすえ、2年後の1923(大正12)年9月1日の関東大震災で焼け出されたことから、やっと龍介のもとに帰ることができた。
結婚した2人は戦後、宮崎滔天の遺志を継いで日中友好運動に従事。白蓮は1967年2月、龍介は1971年1月に死去した。傅右衛門はそれよりずっと早く1947年12月死去。戦後間もないこともあって東朝の訃報はわずか3行だった。




