「品行方正」の家に妾が

 金にあかせて贅(ぜい)を極めた筑前幸袋(現福岡県飯塚市)の本邸、「銅(あかがね)御殿」の名も高い天神町(現福岡市)の別邸、湯の町にある別府の別荘。若く美しい夫人を得た傳右衛門氏はさながら、花の香に陶酔する熊ん蜂(クマンバチ)のように随喜に浸っていた。

 しかし、燁子夫人の顔にはつゆほどの笑いの糸のほぐれも見られなかった。月の半ばを幸袋の屋敷に、あとの半ばを銅御殿に、時に別府の湯の町に姿を見せるなど何の不足もない生活を送っていても、胸は氷のように冷たく凍てついていた。夫との年齢の差はあまりに距離がありすぎたし、まだ当時の夫人は貴族と平民の階級にもとらわれていた。夫の無学、没趣味、野卑のほかは目にも心にも映らなかった。

 仲人口は2万円のほかに多少の希望をともしていた。「傳右衛門氏は至って品行方正。養子もない。夫人の自由も尊重するだろう」。そうして入った伊藤家は、まず数多い美しい女中が傳右衛門氏のそばを離れずかしずくのに驚いた。品行方正と言われた家に妾があり、さらに京都の祇園にも妾が囲われていた。夫人とたった四つ違いの養子がいたのも意外だった。財産について養子と娘とは所有欲が強く、夫人を疑うようだった。

 炭鉱王の夫人としてあてがわれる月々の手当てが50円(現在の約8万5000円)ポッキリ。身の回りのもの全てを50円で済まさなければならない不自由さをなめた。傳右衛門氏はおそろしく干渉した。ある時は、ささいなことで女中の前で夫人をしかり、昔石炭を掘って鍛えたサザエのようなこぶしが夫人のほおに触れようとしたこともあった。耐えられなくなった夫人はある夜、家を抜け出て筑豊線(現筑豊本線)の鉄道線路を恐怖におののきつつさまよったこともある。

 傳右衛門氏の淫蕩(いんとう)(酒色にふけってだらしない)な心持ちはやまず、つい近頃、博多の花柳界で一、二の名花として聞こえた二十歳の芸妓ふな子(加藤てい)を身請けした。表向きは白蓮夫人の意向とされるが、それは言うまでもない傳右衛門氏の侍女。そのために大枚4000円(現在の約320万円)を惜しげもなく投じた傳右衛門氏の心情が白蓮夫人の決意を固くした最近の原因だろう。

 当時東朝の社会部長だった原田譲二(のち貴族院議員)が戦後につづった「赤銅御殿の白蓮脱走」(「文藝春秋」1955年10月号所収)によると、記事の総まとめをしたのは「社会部での腕っこきの名文家」で、社会面記事の全部を1人で書き上げたという。しかし、読んで分かる通り、この記事は事件のさまざまな要素をある構図に押し込めて「物語」にしている。

伊藤傅右衛門邸(『娘が語る白蓮』より)

「教養にあふれた高貴な華族のお姫さまが、年の離れた野卑で無教養な百万長者に金で買われていく悲劇」。その構図はその後もこの事件を一色に染めたまま、「伝説」をいまに伝えている。東朝には白蓮と龍介の恋の経緯に詳しく触れた記事もある。2人の出会いのきっかけは――。(つづく)

次の記事に続く 「恋愛関係は否定しません」「救ってやるのは僕の義務です」24歳上夫との生活に苦しんだ柳原白蓮(当時36)…“恋人”青年がメディアに語った覚悟

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