2008年10月に起きた「田母神論文事件」から今年で10年。航空自衛隊トップによる「日本は侵略国家であったのか」論は大問題に発展、田母神氏は辞任に追い込まれました。一体、あの事件は何だったのか。インタビュー中編ではその「運命の日」までを詳しく伺います。聞き手は近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。(全3回の2回目/#1より続く)
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「やっぱり田母神は何かやると思ってた」
――「論文事件」から10年経って、人間関係はずいぶん変わりましたか? 規模の大小問わず、事件というものは得てして人間関係を変えるものだと思いますが。
田母神 自衛隊以外の有識者や一般の皆様と知り合うことが多くなりました。自衛隊在職中からの人間関係は、変わった関係もあれば、変わらない関係もありますよ、それは。僕らは防衛大学校15期卒業組なんですが、今でも同期とは毎月1ぺん集まって酒飲んでます。仲いいんですよ。
――15期の中でも一番有名なのが田母神さんじゃないですか。
田母神 いやいや、そんなこと言うけどさ……、その通りなんですよ(笑)。
――論文事件で世間を騒がせた後でも、変化なく付き合いは続いているんですか。
田母神 「やっぱり田母神は何かやると思ってた」って言われはしましたけど、結束が強い期ですね。
――同期の皆さんは、事件のみならず、田母神さんの変わったキャリアの歩み方にも驚いていたはずです。1998年、田母神さんは小松市にある第6航空団司令を務められます。ちょうど50歳のときですね。これは地対空ミサイル出身が戦闘機部隊の指揮官を務めるという、航空自衛隊史上初めてのことだったそうですね。
田母神 まあ初めてだったから、珍しいことだったでしょうね。
――人心掌握のために戦闘機の後ろに乗って、一緒に飛んでいたという話もありますが。
田母神 通算57時間かな、乗りました。1回1時間の飛行ですから、57回乗ったことになる。日米共同訓練の際には米軍のパイロットの後ろに乗せてもらい、F16の飛行もこの身で体験しました。厚木の基地からF18に乗って、太平洋上の米軍空母キティホークに降りたこともありますよ。
――そうなんですか。
田母神 まさに同期の話に戻りますが、僕の同期の中島(栄一)くんが自衛艦隊司令官だったんです。昔で言えば連合艦隊司令長官で、私が航空総隊司令官。で、中島が「おい、田母神。ちょっと米海軍のF18乗らないか」って誘ってくれたんで、乗せてもらった。すると着陸するときに僕の機体のほうが先にキティに降りたんです。それで「おい中島、自衛官で一番先に空母に降りたったのは俺だぞ」って自慢した。30秒早かったんです。
「保守人脈」はどうやって築かれていったのか?
――人間関係で言いますと、やはり「保守人脈」がどう築かれたのかが気になります。たとえば「チャンネル桜」の社長である水島総氏――現在では関係が悪化していますが――とは、田母神さんが航空幕僚監部厚生課長だった1995、96年に知り合っているそうですね。これはどんなきっかけだったんでしょうか。
田母神 空幕厚生課には航空自衛隊の雑誌『翼』の編集部があったんです。3ヶ月に1回出す雑誌だったんですけども、自衛官を2名専従で充てて作っていた。水島さんは、確かその筆者の一人ということで出入りしていて、そこで私も会ったということです。
――他にそこで知り合った人というのは、どんな人でしょうか。
田母神 頻繁に出入りしていたのは井上和彦君。
――『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争』などの著作があるジャーナリストの方ですね。
田母神 そうですね。最近はずいぶん本を書かれているようです。
――ちょうどその頃、1995年は地下鉄サリン事件が3月に起きました。田母神さんはそのとき……。
田母神 私が東京の厚生課長になるのは1995年の6月。ですからまだ、三沢基地の基地業務群司令をやっていたときです。
――あれほどの事件が起きると、東京に呼び出されたりはしないんですか。
田母神 ないですよ。あの年は1月に阪神大震災があって自衛隊が救援活動を行いましたが、三沢からは数名手伝いに駆けつけることはあっても、部隊が出るということはありませんでした。