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サリン事件に破防法を適応できなかった政府にショック

――地下鉄サリン事件は未曾有のテロ事件となりました。事件をどう感じていましたか?

田母神 事件としては最悪のものですが、私は一方で「人間の社会だから、いろんな人がいる。こういうことはありうることだな」と思ったんです。その上で、二度とこういった事件を起こさないために何ができるか、どんな対策ができるか考えなければならないと。しかし、サリン事件に対する日本政府の対応にはショックを受けましたね。

 

――どういったところにですか?

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田母神 オウム真理教に対して破防法(破壊活動防止法)を適用できなかった。適用すると、政府中枢の人間がテロの標的になる、そんな政府の臆病さを私は感じましたね。一体、なんのための法律なんだと憤りを感じました。国家の重要な決断をする人というのは、殺したいんだったら殺してみろというくらいの覚悟がないと務まりませんよ。

――オウム真理教には、自衛官の信者もいたと言われていましたが。

田母神 いたかもしれませんが、少なくとも私の周りにはいませんでした。

沖縄時代、大田知事に面会を2回キャンセルされた

――97年には南西航空混成団幕僚長として、那覇で勤務されますね。基地問題など沖縄には一筋縄ではいかない問題があり、防衛官僚、自衛隊幹部にとっても独特の大変さがあったのではと想像します。沖縄時代で印象的だった出来事は何でしょうか。

田母神 沖縄特有の大変さを感じたことは、実はないんです。つまり、琉球新報だとか沖縄タイムス、ああいった沖縄の新聞などが騒ぐようなことがあっても、私たちが街に出たりした時に、人に会って文句を言われたりすることはなかった。ただ、当時は大田昌秀知事だったんですが、挨拶させてもらう予定を2回キャンセルされたことはよく覚えています。しかも直前キャンセル。あれは多分、私に会いたくないという意思表示だったんだと思います。

――結局、会えたんですか?

田母神 その後間もなく、自衛隊機が墜落するという事故があった。すると大田さんが記者団を引き連れて自衛隊に抗議に来た。そこで初めて会いました。

――他の地方でも、それなりの立場であれば県知事と面会することはあると思いますが……。

田母神 沖縄は特殊ですね。というか、大田さんが特殊だったんだと思います。

 

――その頃、田母神さんが関わっていた沖縄が抱える問題で大きかったものは何でしょうか。

田母神 反戦地主の問題ですね。当時、米軍基地用に土地を貸している現地の人、いわゆる軍用地主が3万人いました。その中で、国との契約を拒んでいる「反戦地主」はどれくらいいるのかと調べると、約1割の3000人。しかしながら、3000人の人たちが持っている土地の合計は、たった100m×20m。合計で、ですよ。

――要するに、反戦地主は少しずつ土地を持っているという。

田母神 一番小さな土地を持っている人は、5センチ四方。テレフォンカードの半分ほどの大きさです。この極小単位の土地を持っていたのが当時76人いました。土地代は半年でたったの4円。国はその振込手数料に880円だったかかけていたんですから、バカバカしいことです。反戦地主の人たちは、マスコミでは国から強制的に土地を取り上げられてサトウキビも作れずに困っているかわいそうな人たちという構図ですが、実態は全く違うのです。要は国のやることにただ抵抗しているだけの反日の人たちなのです。反戦地主の半数以上の人たちは実は沖縄に住んだことのない人たちです。多くが東京、大阪、名古屋などに住む左巻きの人たちなのです。

左は聞き手の辻田真佐憲さん

――沖縄では米軍との付き合いも重要な仕事になるんでしょうか。

田母神 ええ、1週間に1回は米軍の誰かと会っている感じでしたね。会食したり、ゴルフすることもありました。個人と個人の付き合いをするのが、割と重要な仕事だったように思います。沖縄の誰々さんが私と米軍の司令官を引き合わせるとか、そんなミーティングも公式、非公式含めてよくありました。

――組織上、偉くなればなるほど人と会うのは「仕事」になってくると。

田母神 私はよく80対20と言ってましたけど、上の立場になれば、自分が所属する組織の中の仕事は全体の2割程度にするくらいの心構えが必要です。中の仕事は部下に任せて、8割は外の人を味方にするための行動に費やすべきだと思います。つまり、説明に出かけたり、国の安全保障政策の理解を求めたり、自衛隊のステイタスを上げるべく活動することを担うということです。これは組織の中である程度の高い地位がないとできないことです。