「スリースター」になると靖国神社から案内状が来る
――2002年、小泉政権、石破茂防衛庁長官時代には統合幕僚学校校長に就任していますね。54歳の時です。この頃から、靖国参拝をするようになったそうですが、それはどうしてですか?
田母神 スリースター、つまり階級が空将になって、階級章に大きな星が3つ並ぶようになると、靖国神社から春季及び秋季例大祭への案内状がくるんです。そしてほとんどの人は靖国行くと問題が起きるという理由で参列しないし、陸海空自衛隊の幕僚長なども代理として1佐の総務課長などを参列させています。しかし私は、私たち自衛隊の代表が英霊の皆様や靖国神社に感謝の誠をささげるべきだと思っていましたので、私自身が参列すると決めていました。私のスタッフも靖国参拝はやめた方がいいのではないかということを忠告してくれたこともありました。しかし私は、自衛隊の将軍が制服で堂々と靖国参拝ができるようにするためには実績を作るしかないと思っていましたので、問題が起きるまで行こうと思って参拝し続けました。
――その後、問題にはならなかったんですか?
田母神 なりませんでしたね。空幕長になっても行きましたから。例大祭では靖国神社は自衛隊の4人の幕僚長には最前列に席を準備してくれます。統幕長、陸海空幕僚長の順に並びますが、統幕、陸幕、海幕は1佐の総務課長などが参列していましたが、空幕だけは4つ星の空幕長本人が参列しているという状況でした。私に仕えている部長たちが「幕僚長、今は控えてください。統合幕僚長は次は航空自衛隊の番です。ですから、わざわざ靖国に参拝して問題になるようなことはしないで下さい」ってご注進に来るんだけど、何を言ってんだ、何もしないで統幕長になって何の意味があるのかと返答していました。トップに戦う姿勢がなければ組織は戦えないというのが私の信条でした。そして「心配するな。俺はつきまくってるから、必ず統合幕僚長になる」って言ってたんですけど、結局、靖国問題ではなく田母神論文問題でクビになって、なれなかったんですけどね(笑)。
中国人民解放軍の大物に「ふざけんな」って反論した日
――統合幕僚学校長時代には初の中国訪問をされています。ここでも言いたいことを言ったそうですね。
田母神 中国人民解放軍の範長龍に会ったんですよ。当時彼は陸軍中将、日本でいう統合幕僚副長のような立場でした。のちの中国中央軍事委員会副主席になる軍の大物ですが、中国の国防総省にあたる「八一大楼」で30分の会談をしました。会ってすぐ「ようこそいらっしゃいました」という挨拶まではよかった。座るなり彼は「過去の不愉快な歴史をどう認識するか」という話題をこっちに話し始めたの。そして「私は旧満州の生まれで、子供の頃から親や親族から日本軍の残虐行為についてさんざん聞かされており私の身体に染みついており到底忘れることが出来ない」と言ってきた。これはどうも、中国軍にとってはごく普通の流れらしいんですが、10分経っても日本の悪口が終わらない。私は聞きながらだんだん腹が立ってきた。お客さんに対して、何言ってんだ、ふざけんなこの野郎って。
――そこで言い返すわけですか。
田母神 このままだと日本の悪口を聞くだけになりそうだったので、彼の話の途中で私は手を挙げて発言を求めました。「あなたは旧満州の生まれですよね? だったら満州の人口が戦前から戦後にかけて膨れ上がったことは知っていますよね。1932年満州国が出来た年には満州の人口は3千万人でした。それが1945年大東亜戦争終結時には5千万人まで増えていたのです。毎年100万人以上も増えている。これは満州の治安がよくて、豊かだった証拠じゃないですか。残虐行為が行われるところに人が集まるわけがない」と。そうすると向こうはびっくりしたような顔をしていました。それまでは日本人は反論などしないものだと思っていたようです。初めて反撃を受けびっくりしたのかもしれません。しかしそこはさすがに中国人です。歴史認識の違いを超えて軍の交流を進めようと言っていました。
――今まで八一大楼で会談してきた日本人たちも、反論はしてこなかったんでしょうか。
田母神 そうだったみたいですよ。あの時、北京駐在の陸海空自衛隊の武官3人が会談に同席しておりました。その中で陸自の武官は3年の任期を終えて日本に帰国する直前でした。その彼が言っていましたね。「3年間ここにいて、日本から来る政治家、官僚、いろんな人と中国側の面談に立ち会ってきたけれども、中国側に文句を言ったのは統幕学校長が初めてです」って。