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終戦、75年目の夏

「日本人は同胞の肉を食べるのか」シベリア抑留者が経験した“人肉事件”の悲しき全貌

「日本人は同胞の肉を食べるのか」シベリア抑留者が経験した“人肉事件”の悲しき全貌

シベリア抑留「夢魔のような記憶」 #2

2020/08/13

source : 文春ムック

genre : ニュース, 社会, 歴史

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 彼らはこれを確かめてから、その木の下で携行食を食べ、ひと息入れた。それから行動をおこし、磁針にしたがって焚火の方向にいそいだ。斜面を少し下ったところでは去年の嵐による倒木にひどく悩まされた。熊の道らしい道はあったが、場所によっては、古い倒木と新しい倒木とが四方から折り重なって通り抜けることができないほどであった。

「正直なところ、彼らはこうした障害をのり越えて、思ったよりも遠くに移動していたね。今朝はきっと未明から行動を起したと思うよ」

 小隊長はこう言って、いくらか疲れた眼でわたしたちをながめた。

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「なにもかも、あっという間の出来事だったよ」

 いよいよ、焚火の煙が見えてきた。逃亡者はわりあい新しい倒木の根もとで火をかこんで坐っていた。捜索隊は小隊長以下6人であったが、彼らに気づかれぬようにしばらく遠くから息を殺して様子をうかがった。よく見ると、坐っているのは2人だけで、あとのひとりは横たわっていた。

 小隊長は、変だなあ、と思って、さらに眼をこらして見た。するとどうだ、その横たわっている人間のまわりは一面血で赤黒く染まっているではないか。しかもそのそばの携帯天幕には肉の切れらしいものが並べてあった。

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「わたしはそのとき、すべてを悟ったね、そして思わずおどり出たよ。すると、ひとりの男が眼を吊り上げて、そばにあった鉈をふり上げてわたしたちに襲いかかってきた。もうひとりもそれにつづいた。わたしはそれまで部下たちにも、射撃のときには足をねらえと命じてあったのだが、あの光景で逆上したのだろうか、アフタマート(自動小銃)を思わず彼らの全身に向かって乱射した。部下たちもわたしにならった。2人は一瞬の後、自分たちの燃やした焚火の上に倒れた」

 小隊長はそこで少し間(ま)をおいた。そしていくらか痛ましそうな面持になってぼそりと言った。

「なにもかも、あっという間の出来事だったよ」

 わたしは、若いに似あわずつやのない、あばた痕のある黄いろい小隊長の顔をながめながら思った。

 ――あの冷たい感じの小隊長にもこんな人間的な情感が秘められていたのか。

 収容所長のもとを辞したときには、長い夏の一日もさすがに終わり、あたりは夕闇につつまれていた。そして、わたしたちの胸にかぶさってくるのは、あいかわらずわたしたちを幾重にも厚く、そして重くつつむ黒々としたタイガだけであった。