藤井聡太名人に糸谷哲郎九段が挑んでいる第84期名人戦七番勝負。挑戦者の糸谷は森信雄七段門下。29歳で夭折した故・村山聖九段は兄弟子にあたる。
勝又清和七段は、村山と同じ1983年に奨励会に入会。これまで語ることのなかった村山との秘話を初めて書き記した。(全2回の1回目/後編を読む)
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棋士は誰でも、「名人」に対して特別な思いを抱いているが、村山君ほど名人になりたいという気持ちが強かった棋士は居なかったのではないか、と今改めて思う。
(『将棋世界』1998年10月号 谷川浩司十七世名人追悼文)
もう語ってもいいかな。29歳で亡くなった村山聖九段のことを。
私も村山も1969年生まれだが、早生まれの私は学年が一つ上。私は神奈川、彼は広島ということで地域的にも接点はない。中学生名人戦の会場で会ってはいるが話したことはなかった。あまり意識もしていなかった。
入会試験の日、誰よりも存在感を放った少年
1983年、中学生名人戦で優勝した私は奨励会試験を受験した。一次試験(受験者同士の対局)を突破し、二次試験(奨励会員との対局)は大阪に行くことになった。もちろん本来は東京で受験するはずなのだが、その期は受験者が過去最高の90名近くおり、試験官として対局相手となる奨励会員の数が関東では足りなかったためだ。
父が会社を休んで引率してくれ、人生初の新幹線に乗って大阪に。大阪市福島区にあった関西将棋会館の対局室に入ると、奨励会幹事の森信雄七段にギロっと睨まれ、「受験者は前に座って」と言われた。
中学生名人だった私は、周りからそれなりにチラチラと見られていたが、それ以上に存在感を放っていたのが彼、村山聖だった。村山と対局することになった奨励会員が「当たっちゃったよ」と嫌な顔をしていたことを覚えている。
私は1勝して奨励会入りを決めた。そして帰りの新幹線の車中で父にとんでもないことを聞いた。村山の父親から「うちの息子は去年受かっていたけど入れなかった」と言われたのだと。
その後、雑誌『将棋世界』に掲載された奨励会成績を見ると村山が5級で入会していて驚く。同じ6級で受験したのだが、村山は試験の成績が抜群だったので一つ上で入会したのだ。
驚きの印象だったとはいえ、奨励会は関東と関西に分かれており、まだ三段リーグもなかった時代、会うこともないまま年月が過ぎた。








