愛媛県のローカル局、南海放送の社長が「プーチン大統領を松山に呼びたい!」と言っているらしい——。かつて手がけたラジオドラマから生まれた大きな夢。「何をおっしゃってるんですか?」から始まったプロジェクトの行く末は? (全2回インタビューの前編)

南海放送社長・田中和彦さん

——あのプーチン大統領を松山に呼びたいと「大風呂敷」を広げた社長さんとはどんな人なのか知りたくて、今日は松山までやって参りました。

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田中 わざわざ遠いところをありがとうございます。

——この“計画”は3月に公開される映画『ソローキンの見た桜』(http://sorokin-movie.com/)に端を発するそうですね。

田中 はい。日露戦争時、捕虜になったロシア人の収容所が設営され、亡くなったロシア人兵士の墓地が整備されたのがここ松山。映画は、この町を舞台にした日本人とロシア人の知られざる歴史を基にした物語です。

——原作は田中さんがお書きになったものだとか。

田中 もともとはラジオドラマとして日露戦争100年にあたる2004年に制作したんです。負傷した捕虜のソローキン少尉と一人の日本人看護婦による「日露戦争時代のロミオとジュリエット」ですね。これを現代の視点を交えながら描いたもので、第一回日本放送文化大賞のグランプリをいただきました。

©2019「ソローキンの見た桜」製作委員会

——ラジオドラマ版は捕虜が松山に入港する場面を「今、ロシア人捕虜が船から降りてきました!」などと実況中継風に、しかも大学の先生の解説までつけて構成していて、実験的だなと思いました。

田中 解説の宮脇昇先生は全部アドリブで当時の日露戦争をめぐる国際的な状況を語ってくださったんですよ。ラジオドラマ初出演とは思えなかった(笑)。

——その解説にもありましたが、当時はハーグ条約で捕虜を保護することが国際法として決められていました。とはいえ、松山のロシア人捕虜収容所は塀もなく待遇も厚く、捕虜は自由に町を行き交うほどだったとか。

田中 当時人口が3万人だった松山に、2年間で6000人のロシア人捕虜がいたんですよ。それなのに松山ではロシア人による刑事事件が起きておらず、治安は安定していた。こうした松山の様子はロシア軍にも伝わり、降伏するときに「マツヤマー」と声を発する兵士もいたそうです。