大島がわめこうが野坂が罵ろうが
――『朝まで生テレビ』に初めて出演したときの思い出といえば、どんなことでしょうか。
西尾 移民問題について議論が沸騰する中で思ったのは、スタジオの観覧客を含めここにいる30人のうち29人は私の敵だなと思った。局側がそういう人を集めている。今と違って、開発途上国の雇用を助けるのは先進国の責務だ、というような美しいことを大前研一や堺屋太一らが恥ずかしげもなく語っていた時代ですよ。スタジオはほぼ全員が日本の職場を外国人に開放して「国際化」せよ、と叫んでいました。そこで私は用意していった紙をどんどんどんどん読み上げていって、その途中に大島がわめこうが野坂が罵ろうが何しようが、言うだけ言ったんです。それが非常に好評だったらしい。西尾は他の出演者の顔色を見ずになんでも言っていたと。
――孤軍奮闘で。
西尾 ただね、一人だけ奮然として私のことを守ってくれた男がいるんですよ。西部です。
――西部邁。
西尾 確か、『朝まで生テレビ』が西部と出会った最初だったと思います。
「つくる会」分裂騒動 みんな「西尾憎し」だったのかもしれない
――その西部さんとは「新しい歴史教科書をつくる会」で一緒に活動しますが、のちに袂を別つことになりますね。『朝生』で援護してくれたたった一人の男が、やがて決別の相手となる。
西尾 それは、いろいろあるわね。どの世界にも、こういうことはある話ですよ。
――1996年12月に「つくる会」は“日本に誇りが持てる教科書づくり”を目的として発足します。初期の主なメンバーには伊藤隆、藤岡信勝、小林よしのり、西部邁、坂本多加雄、高橋史朗などの各氏。会長は西尾さんでした。しかし、会はその後、幹部の対立と分裂を繰り返してしまいます。今、振り返ってどのようなことを思われますか。
西尾 2002年に西部と小林が会を去った原因は、私たち幹部の対立に他なりません。もっと言えば、みんな「西尾憎し」だったのかもしれない。『国民の歴史』がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう。この前、西部が死んで、つくる会メンバーだった八木(秀次)が追悼の文章を書いていたのを読んだんです。すると、2001年の紛争の時期に、西部と八木ががっちり手を組んでいたことがわかった。当時私はそんなことになってるとは知らなかった。