「つくる会」事務所で泣いた日
――「つくる会」時代の、西部さんとの関係はどのような感じだったのですか。
西尾 「つくる会」は歴史教科書のほか、公民の教科書も手がけていて、西部はこの公民の代表責任者でした。ところが、全然協力してくれない。実例を挙げればきりがないくらいに、自分のことばっかり言って、彼の存在は妨害要因だったんですよ。
ただ、私は会長でしたからね、歩調を合わせてもらうべく西部に妥協し、頭を下げてお願いする立場になった。でも彼は共同作業をするという責任意識がなく、事態は進まず、ついに私は西部のところに乗り込んでいって「教科書を出してもらわないと困る」と言いに行ったんですが、ああだこうだと言って条件をつけ「やらない」と言う。私はその日、事務局に戻って仲間と酒を飲みながら、じっと怺えた自分の立場が余りにみじめで、思わず泣きました。プライベートな侮辱もあったのです。自分がトップを走りたいのに西尾がいる、それが気にくわない、そんなひねくれた、あざとい根性が西部にはあったんですよ。
――同じく2002年に脱会する小林よしのりさんとはどんな関係だったのでしょう。
西尾 彼とは今も付き合いがありますが、「つくる会」時代も仲が良かった。小林としては「俺は宣伝マンじゃない」という気持ちがあったのかもしれないが、協力者としては非常に便利でしたし、ありがたかった。叙述もうまいんだよ。だから私は歴史教科書の執筆の多くを彼に任せました。太平洋戦争開幕のところや、特攻隊について、それから日本神話の部分も小林のライティングです。
「俺は西尾さんの仕事を待っている」
――西尾さんによるキャスティングだったんですね。
西尾 そうです。彼の才能を買っていましたから。市販本の歴史教科書自体は40万部くらいのベストセラーになったと思いますが、これには小林に対する人気もあってのこと。だから、その頃までは蜜月だったの。
――西尾さんが『国民の歴史』を書かれるときにも、小林さんは後押しされたとか。
西尾 そうですね、版元の扶桑社がああだこうだと私に要求ばかりしてきたときに、小林は「俺は西尾さんの仕事を待っている」「どれだけ遅れたって構いはしない」と、一貫して私の支持者でいてくれた。彼はね、物を作ることの困難をよく知っているんですよ。
――漫画家としての経験があるからですか。
西尾 そう。自分で人を雇って、アシスタントをまとめる責任感を持っている。その苦しみも知っている。他のメンバーは学校の先生だから無責任で、外側からワイワイ言っているだけだったが、小林には男らしいところがあった。