小林は私の顔を犬にした
――それほどの信頼関係がありながら、なぜ別れることになったのでしょうか。
西尾 私にも明確にはわからない。ただ一つだけ、私も態度を硬くしてしまったと思うのが、小林に漫画を描かれたとき。小林は私の顔を犬にして「アメリカべったりのポチ保守」と描いたんだったかな。
――ありましたね。
西尾 それで僕、怒ったんだよね。
――そりゃそうですよね。
西尾 我慢すりゃいい話だったかもしれないが、そうもいかなかった。加えて2006年に八木が脱会した分裂紛争というのは、さらに我慢しようもないものだった。私はこのとき名誉会長になっていたから、会の人事には関与していなかった。ところがその間に、私の知らない理事がどんどん入ってきたんです。これはいくらなんでもと考えて、他にも理由があって、事務局長を更迭する決断をしたのですが、これが紛争の原因でした。反乱を起こしたこの事務局長は旧生長の家、現在の日本会議系の人間で、「つくる会」はそこの人たちで埋められそうな勢いだった。私が会長を辞め、名誉会長という名で半腰になった頃から、「つくる会」は日本会議に乗っ取られるのではないかという形勢になった。
「日本会議」と握手をしなかった理由
――なるほど。
西尾 日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。
しかしですね、私は「つくる会」に対して“日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、「日本から見た世界史の中におかれた日本史」の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。そこが私の愚かなところ。
――結果、紛争は泥沼化してしまいましたね。
西尾 メンバーの藤岡信勝の名誉を毀損する怪文書事件なるものが起き、藤岡は名誉毀損裁判で敗訴するものの、八木グループがそのデタラメな文書をばらまいたこと自体は裁判で証明され……。昨日まで仲間として、有志としてやってきた者たちがなんでこんな卑劣なことまでしたのかと。でも、私が一番許せなかったのは、そしてこの紛争の中心人物は安倍晋三ですよ。それは、この騒動のそもそもが旧生長の家、現在の日本会議に端を発していることからもお分かりでしょう?
(#3に続く)
写真=佐藤亘/文藝春秋