吉川ばんび 佐々木さんの書かれた「『キモくて金のないおっさん』を救うために、本当の正義の話をしよう」を拝読しました。「弱者として認定してもらえない人たち」の問題は私も記事にしたことがありますが、非常に根深い問題ですよね。
佐々木俊尚 「誰が社会的弱者を選別するか?」というと、メディア側なんですよ。そして選別されたのは「美しくて儚げで、可愛げのある弱者」、例えば身体障害者やLGBTの方がそうですよね。
吉川 マスメディアの力によって世間へ広く認知され、注目されたことで「守らないといけない弱者だ」と大衆に認められた人たちですね。
今までの価値観での「弱者」ではもはや語れない
佐々木 一方で「キモくて金のないおっさん」は、認められなかった弱者の象徴だと思うんです。昔は総中流社会で安定していたから、普通のサラリーマンは、大した取り柄がなくても働いていて、かつて宮台真司さんが「終わりなき日常」と言ったように、そのまま平凡な日常が普通に過ぎていくと誰もが思っていたんですね。だけど終わりなき日常は崩壊して、まさに当時の社会の中核にあった40代には、非正規雇用のまま歳を老いて就活に失敗し、どんどん落ちぶれていく人たちがたくさん現れた。
今までの価値観での「弱者」ではもはや語れない状況の人たちがたくさんいるのに、いまだにメディアでは誰も語らない。「キモくて金のないおっさん」というネットミームは、そんなギャップに対しての反発が噴出して生まれたものじゃないかと思うんです。
貧困で支援を受けるのは恥ずかしいこと
吉川 そうかもしれませんね。今は分かりやすい、見てわかる「支援が必要な人」に対して「差別をしちゃいけない」というのがいわゆる美学とされていて、それは確かに正しいし、メディアがそういう風に報道をしたことがあって支援が広がっているのは間違いないと思うんです。だけど「弱者」と呼ばれる人の中にも、すごく幅があるじゃないですか。
佐々木 「美しい弱者」から「キモくて金のないおっさん」までですよね。
吉川 そうです。いわゆる支援が必要なレベルの貧困や、精神を病んでしまっている人は、一見すると「普通の人」と変わりがないことが多いんですよね。ただ、お金もないし、精神的に問題があって生きづらさを感じている。働ける状態にないとしても、それが分かってもらえないし、本人ですら気付いていない。「生活保護の受給=悪いことだ」、「貧困で支援を受けるのは恥ずかしいことだ」という風潮もあって、どんどん支援を求めるためのハードルが上がっています。支援が本当に必要な人たちが、差し出された救いの手をつかめない状況になってしまっていると思います。