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私たちは「有益じゃないと意味がない」という思い込みから逃れられるのか

臨床心理学者・東畑開人×歴史学者・與那覇潤対談 #2

麦茶は奪われて、「居る」が損なわれるとき

東畑 たとえば、「人と居られるようになるのが目標です」と説明すれば、これはなんとなく分かってもらえる。だけど、そのために、麦茶を飲んでぼーっとしてます、とか麻雀やってます、となると、「それ意味あるの?」という声が飛んできます。「意味ありますよ」って反論しようとするんだけど、「ぼーっとしているだけでしょ」と言われちゃうと、困ってしまう。「そもそも麦茶である必要はあるの? 水じゃダメなんですか?」と事業仕分けのような声が飛んでくるかもしれない。そしてその結果「エビデンスを出してください」とか「もっと効率的にやりましょう」と言われてしまう。でも、やっぱり麦茶なんですよ、水じゃダメ(笑)。でも、それをどう説明したらいいかはとても難しくて、説明できないうちに麦茶は奪われて、「居る」は損なわれていく。

©山元茂樹/文藝春秋

東畑 多分、「居る」こととか、「普通に生きている」ことを語る語彙が、我々には乏しいんだと思います。その価値をみんな本当は知っているのだけど、うまく語れない。そしてその空隙を突かれて、「居る」を支える場所は、「居る」を損なうような全く違った場所になってしまう。だから、「意味がある」というときの意味をどう考えればいいのか。これは「麦茶の意味論」という迷路のような問いです。

「有益」じゃないと意味がないという思い込み

與那覇 意味と有益さって、本当は別の概念だと思うんですよ。ドストエフスキーが獄中記で、強制労働でも「小屋を作れ」と言われたら、囚人が結構いきいきと働くけど、穴を掘ってまた埋めろみたいな完全に無意味な仕事をさせられたら、きっと自殺者が出ると書いているそうですね。建てた小屋に本人が住めるわけじゃないから、無益なはずなんだけど、でも作るという営為自体に「意味」を見いだせるから、なんとかやっていけるわけです。

 しかし我々はどこか、自分にとって「有益」じゃないと意味がない、という発想に囚われている。自己啓発とか業績向上とかの形で、直線状の時間軸に乗ってくれないと「意味がない」と思い込みがちなんですね。そうして色んなものを切り捨てて、かえって生きる意味を感じにくい社会になっている。

東畑 ここに生じている生きづらさは逆説的なものです。この2、30年は新自由主義の時代で、個人が責任を取らなきゃいけない、という風潮が強まり続けてきました。それはもちろん、個人がより自由になることと引き換えだったはずです。新「自由」主義」なんですから。だけど、結果としてみると、組織の力は強まりました。個人はその自由をリスクを避けるために使うからです。そして、リスクをとれるのは資本家とか組織とか、そういう体力のあるプレイヤーだけになっていく。ブラック企業問題には、そういう背景もあるように思います。それが様々な生きづらさを発生させています。

 これに対して、與那覇さんは、共産主義を共存主義として読み変えて、人々が一緒に何かを共有していくことはできるはずだと書いておられますね。