イワシの頭で元気になったらその後の生き方は?
東畑 『野の医者は笑う』は、イワシの頭も信心からという慣用句が語るように、イワシの頭でも治癒をもたらし、役に立ちうることについて真面目に考えようとした本です。このとき重要なことは、イワシの頭で治ったら、ずっとイワシの頭を尊重し続けないといけないということです。だって、イワシの頭のおかげで健康になったら、もうイワシの頭をおろそかにできないですよね。イワシの頭グッズとかをいっぱい買っちゃうと思います。つまり、気功でも免疫医学でも、イワシの頭でも、病んだ人は元気になるのかもしれないのだけど、元気になった後の生き方が違うわけです。
聖書ではキリストに癒された人はキリスト教徒になるプロセスが語られていますが、イワシの頭に癒されるとイワシの頭的に生きるようになります。同じように臨床心理学に癒されると、臨床心理学的に生きることになる。ここに「治ればいいじゃん」という安易なプラグマティズムを超えた倫理学的な問題があります。どういう生き方がよいのか悪いのか。価値の問題です。価値が多元化する現代だからこそ、この倫理学的な問いに取り組まないといけない。
東畑 たとえば、オウム真理教です。多くの新宗教同様、オウムの布教も病気治しを通じて行われていました。そして、実際に持病や不調が治った人たちがいて、彼らはオウムに癒されたので、オウムの信者になった。それは多くの手記に記されています。だけど、彼らは後に深く傷つくことになります。オウム事件によって明るみに出されたように、そこでは他者も自己も損なうようなことが生じていました。「ただ、治ればいいわけじゃない」ということです。
オウムは極端な例ですけど、多くの場合はグレーゾーンですよね。何がよくて何が悪いか。そして、その倫理的な善悪を誰が判断するのか。価値観の多様化を前提とする私たちの社会では、その判断は最後のところ自分でするしかない。だけど、それは生き方に関わっているので、善悪は後からしか分からなかったりもする。この悩ましさの中に今の学問の問題が詰まっているのではないか。
つまり、アカデミズムというものがしっかりと存在感があるときには、それが良し悪しを判断してくれた。でも、そのような信頼は今凄まじい速さで掘り崩されています。なにより、少子化の影響もあって大学自体が経営学的な価値基準のもとに運営されざるをえなくなっているわけですから、アカデミア自体がプラグマティックになり、野の科学的になっているともいえる。
アカデミズムに支えられない知の価値はあるのか
與那覇 とにかく「役に立つ学問」、端的には予算がとれる学問たれ、といった号令のもとで、グローバルだAIだといったバズワードに群がる大学人が増えた結果、悪い意味でビジネス書と見分けがつかなくなってしまった。「知」の全体がもう1度、野の科学に覆われてゆく事態も十分想定し得るわけですよね。
東畑 そう。その時に、知の価値の根拠をいったいどこに僕たちは求めていくのか。もちろん、その1つの答えが「快感」です。読書の楽しみもそうだし、なんか励まされるという與那覇さんのおっしゃる野の歴史学の価値がある。他方に、学問的手続きに支えられた信頼性という価値が以前にはあったと思います。
だけど、今までのように、何々大学の何々先生が、そういう信頼性を担保してくれなくなったら、実際SNSによって彼らがそんなに信頼できないと人々が思うようになっていますが、僕らは知の価値を何によって支えていけばいいのだろうか。そういう問題です。