若手棋士を集めて『秀行塾』を開いた晩年
「秀行さんの碁は、将棋の升田幸三(ますだ・こうぞう、実力制第四代名人)と比較されますね。新手が多く、独創的な考え方をされるので。升田幸三のライバル、大山康晴に匹敵するのは、坂田栄男(さかた・えいお、二十三世本因坊坂田栄寿)さん。坂田藤沢は大山升田より対抗意識が強く、盤上では死闘を繰り広げていました。
坂田さんは大山先生と違って、毎晩、銀座でボトル2本空けていた人です(笑)。昔、四谷の料亭『福田家』で2日制の対局を打ったときは、打ち掛けの夜も銀座に行ったことがありました。対局を控えているので、ボトル1本か1本半に抑えたそうですが。私の先輩の囲碁担当記者だと、坂田さんが地方対局のときに『最高の酒と女性を用意してくれ』と頼まれて、よいバーやクラブを探しておいたそうなんですね。でも、もしお店にそれなりのお酒がなかったら困るので、担当者は『ジョニ黒』を必ず忍ばせていったと聞いています。で、地方から東京に帰ってきたら、お車で銀座に直行して、また飲んだそうです。
銀座で70歳まで金を払ったことないのが坂田さんの自慢でして、必ず囲碁ファンがいて払ってくれたそうです。当時は文壇に囲碁ファンが多かったですからね。それを聞いた趙治勲(チョウ・チクン、現二十五世本因坊治勲)さんが面白がって『銀座は不案内なので、ご紹介していただけますか』と坂田さんと飲みにいき、会計で『さすがに先生、自分で払いますよね』といったという(笑)。坂田さんに『しょうがない。俺は払ったことがないのにな』って払わせたそうで、のどかな時代ですよね」(同前)
無頼派で知られた藤沢秀行だが、長い期間に渡って若手の囲碁から学んだそうだ。
「晩年は若手棋士を集めて『秀行塾』を開きました。将棋の『米長道場』みたいなものですが、若手が秀行さんの目の前で碁を並べると『その手はなんだ!』『もうここから先は並べなくていい』と叱りつけたそうです。ただ、これは囲碁棋士の皆さんがおっしゃっていたんですけど、秀行先生も年を取ってから伸びるために若手の考えを吸収する機会を作ったんだけど、なかなか対等な立場でというわけにはいかないから、ビシビシやっていたんじゃないかといわれています。実際に、若手棋士の考えを吸収して、最高齢のタイトル獲得につながりました」(同前)