中国・韓国にも影響を与えた藤沢秀行
米長道場とは、1989年に故・米長邦雄(よねなが・くにお、現永世棋聖)が開いた、出入り自由の研究スペース。若手棋士や奨励会員が研究の場として大いに活用した。
1985年、米長は41歳の時に四冠を達成するも、谷川浩司や1980年にプロ入りした「(昭和)55年組」の台頭に押され、86年には無冠になっていた。米長道場を開いたのは、中終盤を重視していた自分の将棋を変えるために、若手の将棋から最先端の序盤戦術・感覚を学ぶためといわれている。その甲斐もあって、1993年に念願の名人を7度目の挑戦にして初獲得。「50歳名人」を達成した。
米長道場に参加していた棋士は、羽生世代の棋士が多い。山村さんによれば、秀行塾は国内だけでなく、中韓にも大きな影響を与えた。
「いまの中韓の隆盛を作った人達は、秀行さんの薫陶を受けました。『囲碁に国境はない、強くなりたいやつは、いつでも来い』と、秀行塾に中韓の人も招き入れたんですね。これも半分は本当なんですけど、やっぱり新しい感覚を身に着けるために、彼らを呼んだんじゃないかと思います。
中韓との交流の碁は、途中は日本が圧勝していたんですけど、『中国、韓国は怖いぞ。あの熱心さでこられたら、日本は勝てなくなる』といいはじめたのも、秀行さんなんですよ。
私が囲碁の担当になった、34年前は日本がまだ勝っていたんですけど、はっきり劣勢になったのは、韓国の李昌鎬(イ・チャンホ、現九段)が出てきて、誰も勝てないだろうという話になってからです。趙治勲さんは『韓国の碁は3時間なので、日本の2日制でやったら日本のほうが上なんじゃないか』とおっしゃっていて、趙治勲と李昌鎬の七番勝負をあるスポンサーが企画して、やる寸前までいったことはあります。趙治勲さんも乗り気でした。若くて強い人と対局したいのは、棋士の本能ですよね。対ソフトだって、自分より強いと聞いたらやりたいと思うでしょう。その気持ちをなくしたら、棋士じゃないといえます」