捜査線上に上がった“ある皇族の馬丁”
この緊張はたった2日間だった。
売却者は2、3日前、庭先で遊んでいる子供が時計のキカイを弄っているのを見つけ、それが自宅の縁の下にあったと聞いて、格別怪しみもせず取り上げて置いたが、1、2日たって外出の折、気がついて、時計屋に見せたところ、いいキカイだからとすぐ買ってくれたので、拾得物横領に若干の後めたさは感じながらそのままにしていたというのだった。
出来心に恐縮するこの人を前に、一同がっかりしたものの、さて、説教強盗の被害品がはじめて現れたのだから、一歩も二歩も前進である。
殊に学習院というものが登場したことは、捜査範囲を狭めたものだった。問題の時計の発見された場所は、外の道路とは相当の距離があり、投げこんだものにしても遠くからのものではないと推定されたから、何よりも構内が怪しいということになる。
かくして捜査は構内居住者の身辺にそそがれ、しらみつぶしの調査となった。
その結果線上に浮び出たのが、ある皇族の馬丁だった。素行も芳しからぬに金づかいも荒いとわかると、どこからどこまでも犯人臭くなってくる。
しかし、乗馬好きの皇族の身近にあって、特に御寵愛をうけているのだから、うかつに手は出せない。どうしても現行犯で捕えねばならない。
うっそうたる茂りに取り巻かれた学習院は忽ち重囲の中に入った。およそ人間が、もぐりこみ得ると思われる個所には、すべて屈強な強力犯の(ああなんとなつかしい言葉だ)刑事が、どぶねずみのように潜んだのである。
この当時のことを思えば私自身も胸が躍る。これを新聞に書かない条件で私は、この捜査隊の中にいたのである。
しかも、狙う馬丁の写真も素姓もすべて予定原稿にして、これが捕まって泥を吐くと同時に記事にするつもりで頑張ったのであった。
真犯人に迫る“立太子式の御大典”
頑張り4日にして大きなニュースが伝わった。立太子式の御大典に摂政宮が京都に御出でになる。被疑者は当然これに従って京都へ行くというのだ。
この情報のあった夕方、目白のあるソバヤの2階で、恒岡警部はゲッソリした頬をなでながら、“ラクになったじゃねエか。ホシが京都へ行ってれば、被害はねエ筈じゃねエか”と、福島弁で言った。
皇族の出発と共に学習院の包囲は解かれた。しかし、全然放棄したのではなく、何人かの変装した刑事は依然頑張っていた。
それからの捜査本部の空気というものは、まことに妙なものだった。毎夜これぞと推定した場所に、刑事連を張り込ませながら、一方に京都からの(もちろん警視庁刑事が尾行して行っていた)情報を待ち、あるいは説教強盗が現れるかも知れないという気持で警戒なるものをつづけていたのである。
あとになって当局は、この馬丁は一つのちいさな参考にすぎなかったといった。しかし少くも捜査能力の3分の1は、これに注いでいたのだ。
御大典の日程が本部にも、警視庁の捜査課にもピンで留められていた。
もし、この被疑者が京都出張中に、説教強盗の被害がなかったら、もう決定的に真犯人である。真犯人だとなったら、一体どんな方法で逮捕するのか。3日たち4日たっても被害届出がなかった。5日たっても当局の説教ゾーンに異状がなかった。
言葉には出さなかったが、当時の捜査の人々の表情に、一種の変化が浮んだと、私はみているのだ。私自身も、写真まで揃えた予定原稿に、“説教強盗ついに就縛”とか、“世紀の大典の蔭に”などと、赤鉛筆で見出しをつけてみてソワソワしていたのだ。