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「自分はこれが不快だ」という権利主張

 思い返せば、現代社会でいろんな人たちが思うことをどんどん言えるようになったからこそ、自分はこれが不快だ、こうしてほしくない、やめてくれ、という権利主張をできるようになり、それまで社会的に「当然だ」と思われていた慣習に対して文句を言えるようになった、ということでもあります。それはそれで素晴らしい。我慢していてもいいことなんてひとつもないからね。思うことがあったら、みんなワーワー言えばいいんですよ。

 そこへ、インターネットのような誰もが自由に発信できる仕組みができたので、たとえ頓珍漢な主張と第三者的に思えることでも、その人にとって実現されるべき正義だと思うことがあればどんどん発信して地域や行政や社会にアピールすることができるようになった、と。

 確かに私も淫乱な独身者が満載する下心を発散させるクリスマスイブなど神への冒涜であり単なるコカ・コーラのマーケティングの成れの果てに過ぎないのだから爆散させるべきと思ってきましたし、閾値を下回る醜い男女がごっそり対象から外されるバレンタインデーのような行事もまた殺戮事件が起きるなどして中止にならないかなと毎年願ってきました。「自分は無関係だけど、みんな楽しそうだな」と思えるようなことはなるだけ見ないようにするしか方法はなかったのです。

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 しかしながら、母の日ひとつとっても「お母さんがいない子」や「祝える状況にない子」が鬱々とした気持ちで学校やイベントや施設にきて、我慢して時間が過ぎることをただ待っているというのは切ない。一方で、そういう家庭があるからと言って母の日も満足に祝えないような社会にしていいのかと言いたい気持ちもわかる。

 結果として、集団全体の最大公約数を取ろうとして「来年からは参加したい希望家族と子どもたちだけで『放課後に』『時間外で』母の日をお祝いするイベントをやりましょう」という話になり、そうなると「そこまでしてみんなで集まって母の日を祝いたいか? それなら早く帰って家族でご飯食べたほうが幸せなのではないか」という流れとなって、自然と次からはこの施設では母の日を祝うイベントをやらないようにしよう、という結論に達します。

新人が一人もいない新人歓迎会がしめやかに執り行われる

 ある事柄を集団でやろうとすると、その集団の中でその事柄にたいして都合の悪い人が出る、その事情を考えるとある集団全体がその事柄を取りやめるべきだ、と安パイの方向にいくのは、果たして衰退なのでしょうか。

 言われてみればごく最近、投資先に新卒で入社した子たちを集めて新人歓迎会をやろうとしたら、それは業務時間内であり給料が出るのかと質問した新卒がいたため、会社の福利厚生費で予算を捻出した総務担当の幹部がキレて「そんなことを言う新卒なら歓迎しなくていい」となり、30人いるはずの新卒が全員欠席して新人が一人もいない新人歓迎会がしめやかに執り行われる、という事案が勃発しました。それ単にお前ら幹部以下社員が酒飲んでゴロゴロしてるだけじゃねーか。

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 その後も、社員旅行が中止になったり上場10周年記念会場ではビールではなくオレンジジュースとコーラだけが出るという潤いのないイベントをやっていましたが、新人も幹部も幸せそうに好調な業績を祝っていましたので、時代が下れば組織と人の関わり方にも大きな変遷が起きることになるのかもしれません。