文春オンライン

「おかあさん、ありがとう」が公に言えなくなる日

そりゃ個人の事情は千差万別だろうけど

2019/05/20
note

 先日、母の日がありました。日ごろお世話してくれるお袋や家内にも感謝を伝える大事な儀式を行うことで家庭円満、心穏やかに暮らすことができるようになるという人類の叡智を感じさせる仕組みがそこにあります。

 私も、母の日は家族でそろってご飯を食べながら酒が進み思わず大暴れをしてしまうのが例年のことですが、お袋や家内には感謝しかありません。なんかこう、酔っ払わないと「ありがとう」と素直に口から出てこないもんなんですよねえ。ヒップホップで程度の低い連中が「親に感謝」とか歌ってて馬鹿なんじゃないかと思ってましたけど、まさかこの歳になって自分がそのような内容を申し上げる人生が待っていようとは思ってもみませんでした。申し訳ございませんでした。

©iStock.com

こんなお祝いムードの日にいったい何なんですかねえ

 人生は大海原を往く航海だとするならば、家庭は確固とした母港であって、プライベートががっちりと固まっていればたとえ時化に遭って船が傷もうとも多少のことならやっていける、というのが真理だと思います。船が沈んじゃったらどうしようもねえけど。

ADVERTISEMENT

 そんなこんなで今年も母の日がやってきたので元気に家族でお祝い事をしようと張り切って準備していたわけですけれども、子どもを習い事に連れて行ったら顔見知りのママ友が顔真っ赤にして怒っていたり、先生が困惑したような表情で所在なげにしていたりします。

 こんなお祝いムードの日にいったい何なんですかねえ、と思ったら「お母さんが夜まで働いていて母の日どころではない家庭」や「そもそも父子家庭で暮らしている子ども」はどういう扱いにするつもりなのか、と文句を言っているのが聞こえてくるわけです。え、そんなことすらもクレームになるような時代になってしまったの。少なくとも、我が子の手を引いて施設に入った私には「面倒くさい親が『母の日』のイベントをやろうとしていた施設の善意にクレームを入れている」図式に見えてしまいます。

©iStock.com

やっぱり現代社会はこうでなければならない

 もうね、この時点で耳ダンボですよ。象さんなわけですね。気づくと、耳を大きくした同好の士が皆さん程よい距離を取って顛末を聞き逃すまいと鈴なりになっておられます。わかる。何この微妙な連帯感。施設の玄関口で「働いている私はどうしたらいいんですか」と金切り声を挙げている若いママさんを遠巻きにするように、それでいて横目でしっかりと視界に入れ、そこで起きる思わぬ事態を脳裏に刻み込もうと絶妙な位置取りをキープするわれわれ。

 そこへさらに、同じく母の日を祝えない何らかの事情を持つ他の子どもの父親やさらに別の子の祖父らしき人も参戦、あまりに騒がしいので隣のマンションから馴染みのジジイや町内副会長まで出てきて騒ぎは拡大していきます。

 これだ。やっぱり現代社会はこうでなければならない。すでに集まっている習い事の子どもたちが、部屋の奥のほうで惨事から逃れるように小さくなってこちらを見ています。母の日がこんな修羅場になるなんて思いもよりませんでした。

 まあ、母の日を強要するのは良くないですね。お母さんがいない人だっているんですから。

 でも、お母さんがいないからといって、お母さんがいる子どもたちがお母さんに感謝する日をセレモニーで祝うことを止める権利はないんですよね。