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 升田三冠の引き立て役となった感がある大山だが、その升田からことごとくタイトルを奪い返したのはさすがである。1958年にはすぐさま王将を奪回し、続けて名人にも挑戦。この時は返り討ちにあったが、年末には九段も奪取し、二冠復帰。

 そして1959年6月12日、升田から名人も奪い返し、史上2人目の三冠王となった。この時の心境について、

「名人位を取り戻し、三冠王にもなった喜びは、言葉にも、文字にも表せないものであった」

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「『長く続けてこそ、真の価値がある』と言い放った木村名人の言葉を思い浮かべていた」

 とそれぞれ自著に書いている。

対局する大山康晴(写真右) ©文藝春秋

「これからはノンキに指したいですね」

 最後の砦である名人も失った升田は胃潰瘍の治療のため休場することになり、以降タイトルの地位に返り咲くことは二度となかった。名人戦が終わった直後に行われたインタビューには、

〈――トリプルクラウン(三タイトル)をもう一度狙いますか。

「もう、とらなくたっていいんじゃないですか、そう思いますね。この一年休んで体の回復に努め、よくなれば指します。まあ、これからはノンキに指したいですね」ここでちょっと笑う〉

 とあった。(『将棋世界』昭和34年8月号より)

 ここで、三冠王という言葉がいつ頃から使われたのかを考えてみたい。まず、升田の名人奪取を報じる、将棋世界の昭和32年9月号には、三大タイトル独占という言葉はあっても、三冠王という言葉はない。ただしトリプルクラウンという言葉はあった。

 そして上記のインタビューもそうだが、将棋世界の昭和34年8月号にある写真キャプションには「棋界のトリプルクラウン(三冠王)」と書かれている。

 将棋界では升田の三冠独占以降、三冠王という言葉が使われ始めたと考えることができそうだ。

「三冠王」の言葉が生まれたのは1950年代後半

 ほかの業界で三冠王という呼称が比較的よく使われるのは、プロ野球の打撃三冠王だろう。野球の三冠王は、戦前の1938年に中島治康選手が初めて達成したが、当時は三冠王という概念はなかったという。

 1953年から58年にかけて、中西太選手が、あと一歩で三冠王を逃すことが4回あった。このころ、トリプルクラウンという用例が多くみられる。そして1958年のシーズンオフには、主要各紙で「三冠王」という言葉が使われ始めたという。将棋界の三冠王とほぼ同時期といえる。

 大山が三冠王になって以降、王位戦、棋聖戦と相次いで新タイトルが誕生したが、そのすべてを大山は奪取した。三冠王になった1959年6月12日から1972年6月8日までの実に13年間、大山が自身の持つタイトルを2つに減らすことはなかったのだ。