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「棋界の太陽」こと中原は史上2人目の五冠王に

 その大山の牙城を破って史上3人目の三冠王となったのが「棋界の太陽」こと中原である。第31期名人戦七番勝負で大山を破り、既に持っていた十段、棋聖と合わせて三冠達成となった。

 中原は名人奪取が報じられた『将棋世界』昭和47年8月号に、第6局の自戦記を寄稿している。その末尾は、

「苦しい将棋だっただけに、精神的にも大きい勝利であった。続く第七局でも勝てて、名人位を獲得できたのは僥倖であり、天運に恵まれた為と思っている」

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 と締められている。

大山とタイトル戦を戦う中原誠(写真左) ©文藝春秋

 名人を失った大山は王位と王将も立て続けに失い、16年ぶりの無冠に。その後、三冠王へ復帰することはなかったが、1974年には十段と棋聖の同時二冠を達成。最後のタイトルとなった王将を獲得したのが56歳(1980年)で、それを59歳まで防衛した。そして最後のタイトル挑戦は66歳(1990年)の棋王戦。まさに「不世出の大名人」と呼ぶのにふさわしい戦績であった。

 大山の後を継ぐ形で一時代を築いた中原は、名人奪取後も次々とタイトルを重ね、大山に続く史上2人目の五冠王となる。1981年3月12日に米長に敗れ棋王を失冠し、連続三冠は途切れたが、1985年6月4日に谷川を破って名人奪取。王座、王将を合わせての三冠王に復帰した。「三冠王復帰」を果たしたのは中原が史上初である。

「世界一将棋が強い男」と称された米長だが……

 中原の終生のライバルともいうべき米長が三冠王となったのは1984年1月23日(棋王、王将、棋聖)。さらに1985年1月7日には中原から十段を奪取して史上3人目の四冠王となった。この時は「世界一将棋が強い男」と称された。

 だが、名人にだけは縁がなかった。名人戦の舞台ではことごとく中原に打ち負かされ、「なぜ将棋の神様は俺を名人にしないのか」と嘆息したという。

 それでも1993年、ついに宿敵中原を下し、7度目の挑戦で悲願の名人位に就いた。50歳名人は現在に至るまでの最高齢記録であり、また中原との187対局(米長80勝、中原106勝、持将棋1)は公式戦同一カードの最多記録である。

のちに永世棋聖の称号を得た米長邦雄 ©文藝春秋

「もうひとつ加えて過半数にしたいですね」

 大山と升田、中原と米長はそれぞれそのライバル関係で一時代を築いたといえるが、昭和から平成に時代が移り変わろうとするとき、新時代の覇者となったのが谷川である。1988年6月14日 、中原を破って名人を奪取し、王位と棋王を合わせての三冠となった。

 当時のインタビューを抜粋すると、

〈――史上五人目の三冠について

「もうひとつ加えて過半数にしたいですね」

――ずい分と欲張りですね(笑)。

「こればかりはいいでしょう。それと、20代同士のタイトル戦は全て挑戦者が奪っているので、私の場合はこれを阻止したいですね」〉(『将棋世界』昭和63年8月号より)

 とある。