解説:謀略のにおいが付きまとう事変の引き金

 現代史でこの事件は、万宝山事件(「満洲」に入植した朝鮮人と中国人が対立。朝鮮半島に住む中国人100人以上が殺害された)と併せて「満洲事変」の引き金になったとされる。中村震太郎大尉は、対ソ連作戦の兵要地誌作成のため、満洲北部興安嶺方面で偵察任務に従事中、中国「第三屯懇軍」(本文では「屯懇第三団」)に捕まり、部下らとともに銃殺され、遺体は焼かれた。

 これを調査・報告したのは、本文にも出てくる片倉衷大尉だった。発覚が1931(昭和6)年6月27日で、関東軍が公表したのは8月17日。小柴氏の記述はこの間の出来事が中心だ。

「中村大尉遭難事件」は事件発生から2か月経って情報解禁された 1931年8月18日東京朝日新聞の夕刊

 関東軍は攻撃態勢を準備。「軍部の威信を中外に顕揚して国民の期待に答え、満蒙問題の解決の端緒たらしむるため絶好の機会なり」として実力調査の対処方針を上申したが、外務省の難色などで認められなかった。作戦主任参謀の石原莞爾中佐は、かねてから「満蒙(満洲と内モンゴル)領有」が持論。臼井勝美『満州事変』(中公新書)は、「石原らは中村事件を満蒙問題解決の『好機』と認識した」と断定している。

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 最近の中国側の研究でも「(事件は日本にとって)情況によっては『永久占領』を行い、『満蒙問題の根本的な解決』をめざすものだった」とされる。

 日本国内では「大尉の敵を討て」と武力行使を求める声が高まった。中国側は当初「事実無根」としていたが、9月18日、初めて殺害を認めた。事態が新たな交渉に移ろうとしていた矢先の同日夜、関東軍は柳条湖(当時は「柳条溝」と呼んでいた)で線路爆破事件を起こし、「日中15年戦争」が始まる。

 この時期の満洲をめぐる動きには謀略のにおいが付きまとう。中村大尉が農業技師を装ったスパイだったことに疑問の余地はないが、攻撃の理由づけのための計画的な挑発行為だった疑いも残る。本文は戦後10年たって書かれた文章だが、小柴氏自身、単なる新聞記者だったのかどうか……。

小池新(ジャーナリスト)

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 満洲事変勃発の導火線ともなった中村大尉一行の遭難事件の真相を追求した新聞記者(小柴壮介氏)が初めて明かす秘めたる特ダネ。

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「中村大尉遭難事件」

太平洋戦争へと続く世紀の大事変の序章

 昭和3年6月2日、張作霖爆破の日を境にして、満洲各地に排日のボヤが燻りはじめたのは当然だが、そうした険悪な状態が、3ヵ年もつづいて、昭和6年6月を迎えた。この月、不幸にして発生したのが、中村震太郎大尉(参謀本部勤務)の遭難事件である。これが満洲事変の口火になって、支那事変、太年洋戦争へとつながる世紀の大事変へと発展して行ったのである。

張作霖爆破事件を伝える1928年6月4日東京朝日新聞夕刊

 中村大尉事件の前にも、今にも大火になりそうな事件が幾つかあり、それらが大火になりそうでいて大火にならなかったのは、いずれも民間の事件だったからで、事実、関東軍の腰は重かった。

 そうした重い腰の関東軍が、別人のように気負いたって、全満に燻っている排日のボヤを一挙に始末しようと決意したのは、中村大尉事件の全貌があきらかにされた時であった。

 榊原農場事件や万宝山事件なぞ、規模から云えば、中村大尉事件とは較べようもない大事件であったが、それらが戦争とならず、中村大尉事件で戦争となったのは、関東軍の言葉をかりれば、「あれとこれとは性質が違う。今度のは、陛下の軍人が殺されたのだ」ただそれだけであった。

この事件が発端となって太平洋戦争の開戦へと続いていく 1941年12月9日東京朝日新聞夕刊