新聞記者が追った「中村大尉遭難事件」のカギを握る人物
私は、当時、満洲一の発行部数を有つM新聞の嘱託をしていた。
柳条溝であの火蓋がきられると、私は早速リュックを担いでとび出した。
南満から北満にかけ、戦雲を縫って駈け廻ったが、これといった目ぼしい取材もなく、少々へこたれ気味で、チチハルに潜入した時だ。ここで、かねて心の隅にひっかかっていた、中村大尉遭難事件の真相を釣り上げることができたのである。昭和6年も押しつまった12月の、外は粉雪の舞い狂う寒い日であったが、私の心は燃えていた。
中村大尉事件の、真相の扉のカギを握っていたのは、佐藤鶴亀人さんである。
佐藤さんは、満鉄チチハル公社で、農業調査を担当していて、始終、出歩いてるから、ひょっとしたら中村大尉事件について、なにか断片的な資料でも持っていないだろうか、と思ったのがきっかけで社宅に訪れた。
ところが――である。灯台下暗し、とはよく云ったものだ。私の切り出した用件に応えて、佐藤さんは、心もち顔をくもらせ、苦笑いしながら言ったものだ。
「知ってますとも。中村大尉の一行が殺される現場を見ていた苦力をひっぱって、奉天の特務機関に引渡したのは、私ですから」
それからの私は、夢中であった。メモとる筆も中絶しがちで、それでもどうやら書き取った。
以下は佐藤さんの談話であって、私というのは、佐藤さんのことである。
◆◆
突然の深夜の電報で知らされた妻からの"噂話"
いやァ、愕きましたよ、あの時は――。
たしか7月23日(昭和6年)だったと憶えています。出張、そう――私は、安達方面の農業調査に行っていたンですが、夜おそく帰って来ると、いきなり女房がこんなことを云うのです。
「青木さんの奥さんから聴いたンですけど、内蒙の方で、日本人が2人殺されたンですって――」
どきっとしましたね。全くのはなしが青天に霹靂を聞いた思いです。
「それで、聴いたのは、それだけか?」
と問いますと、ええ! と簡単な返事です。もう一瞬もじっとしておれません。
「よし、これから青木の処へ行って来る」
そう去い捨てて、私は、深夜の街へとび出しました。
青木さんは、やはり満鉄社員で、チチハルの試作農場に籍を置いて、私とは懇意の間柄でした。
なにしろ深夜ですからネ、むろん寝てましたとも。吃驚りして起きて来ましたよ。こっちは気が立ってるし、挨拶なんか二の次ぎです。いきなり奥さんに、
「奥さん! 内蒙で日本人が2人殺されたというのは本当ですか?」