「言って下さるまでは、迷惑でも一歩もここは動きませんから」
すると、奥さんの顔が、さッと変って、
「ええ――」
と、渋りがちに答えはしたものの、その容子がとても苦しそうです。こっちは夢中ですから、そんなことには頓着なく、畳みかけて訊いたンです。
「誰から聴きました? そんなこと」
言わない。サザエのように黙りこくッて、じっと下を見つめているばかりです。いくら口を酸っぱくして言っても反応がない。よほど堅く口止めされていることが解ります。で、とうとうしびれを切らした私は、
「奥さん! くどいようですが、外のこととは違います。日本が世界中の笑い者になるかならぬかの瀬戸際です。天皇陛下のお顔に泥を塗って平気でいられますか。ぜひ言って下さい。言って下さるまでは、迷惑でも一歩もここは動きませんから――」
天皇陛下云々の言葉は、数千語、いや数万語にも勝る絶対的なものでした。重い口がほころびました。
植松フデ子。これが青木夫人に話を持ちこんだ当人でした。
犯人と名乗る"王秉義"の告白
肉の放浪者としての過去をもち、今は、蘇鄂公府の土地顧問をしている王という者の太太(細君)になっている女です。
フデ子のかつての馴染み客に、王秉義というのがいました。屯墾第三団第四連長の肩書をもち、ちょっと羽振りの利く方ですが、それがある日、飄然とチチハルに現われて、愕くべきニュースをもたらしたのだそうです。
――索倫で、日本人を2人殺した。所持金を7人で分けたが、分け前が尠くて不服だったから逃げて来た。見たことのない立派なピストルを持っていたことから推して、きっと身分の高い人物に違いないと思う。しかし、このことは、誰にも口外しないで欲しい。判れば、自分の首はふっ飛ぶから――と。
それで、最初のうちは、自分だけの胸で始末していたが、そのうち、どうにもやり切れなくなって、秘めよう、隠そうとすればするほど疼き出すので、せめて苦楽をともにした貴女になりと話したら、いくらか心の重荷が下りるのではなかろうか、とそう思うと、一刻もじっとしておれなくなって――。
息詰まる思いで耳をかたむけていた私は、話の中に割切れぬものがあるのを発見しました。
なぜか屯墾第三団の追及から逃れ続ける王の潜伏先
が、それは兎も角、殺された日本人は、多額の金子と立派なピストルをもっていたという。中村大尉の一行なら、金は充分に持っていたであろうし、立派なピストルというのは、近頃評判の、南部式ピストルに違いありません。
とすると、殺された日本人を中村、井杉と断定しても間違いあるまい。
私は、チチハルで待っている宮崎少佐に宛てて直ちに打電しました。
ソウサタイノシュッパツミアワセ スグユク サトウ
それからいくらも経たぬ頃でした。旱天の慈雨にも似た情報が、だれからともなく私の処に舞いこんだのです。
それは、例の植松フデ子の主人、印ち蘇鄂公府の土地顧問だという王が、どうしたわけか屯墾第三団の追及をのがれて、目下、チチハルに潜伏中――という、意外な情報です。