――バニビはアイドルからも愛されていましたよね。
レナ 愛されていたというより、嫌われてなかっただけじゃないかと思います(笑)。
――そうでしたか(笑)。まぁ、種類が違うからライバル視されることはなかったし。
レナ そうなんですよ。私たちもライバル視することはなかったですし。
「普通のOLくらいの給料はもらっていました」
――バニラビーンズとして「売れたい」と思ってました?
レナ 思っていました。Perfumeさんのライブを初めて観たのが下北沢にあるキャパ200人のMOSAiCで。女の子ファン限定のライブだったんですよ(2008年2月22日)。その後、リキッドルーム、Zepp、武道館と会場が大きくなって。2010年(11月)には東京ドームのステージに上がってたんです。そんな影響もあって、私たちも東京ドームは無理でもZeppまではいけるだろうと思っていました。
ただ、アイドル戦国時代が進んでグループが増えたことで、ファンの方もいろんなグループに分散するし、大所帯のグループのほうが相対的にファンは多くなるだろうと考えて、バニビとして大きい箱でのライブは諦めるようになりました。
――その分岐点はどこだったと思いますか?
レナ 徳間ジャパンからT-Palette Records(タワーレコード内に設立されたアイドル専門のレコードレーベル)に移籍して。T-Paletteの第1弾が私たちで、第2弾がNegiccoさんでした。当時はよく2組でイベントを回らせていただいて。最初は2組とも声入りの曲に被せて歌っていたんですけど、ライブを重ねるうちにNegiccoさんは生歌にシフトチェンジしたんです。
これはNegiccoさんの運営に柔軟性があったからできたことだと思っていて、私たちは良くも悪くもコンセプトがブレなかった。ここがひとつの別れ道だったのかもしれません。試練を与えられたNegiccoさんはアーティストとしての力がついていったじゃないですか。
――生活面で苦しかった時期はありましたか?
レナ 私たちはデビューしてからずっとお給料が変わらなかったんです。活動の前半はバイトもしていました。中盤からは営業が入って基本給にプラスアルファされることもあったので、苦しいながらもアイドルだけで生活できて。後半はテレビ番組のレギュラーがあったので、普通のOLくらいの給料はもらっていました。
――2015年秋にはT-Palette からさらにエイベックスに移籍しました。
レナ T-Palette時代のライブで「レーベルの人が観に来てるから」とスタッフに言われて、期待した事もありましたが、結局、話が進まない事が多々ありました。そんな時に手を差し伸べてくれたのが、すでに女子流のスタッフから外れていた佐竹さんだったんです。バニラビーンズはいろんな人に紡いでもらった「つぎはぎだらけのアイドル」だったと思います。