華やげる銀幕の女王から堕胎罪の汚名をきて獄窓に下った志賀暁子の悲しみを事情通が愛情こめて刻明に描く!

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「銀幕の女王・醜聞事件」(解説を読む)

スターであるが故に受けた「必要以上の罰」

 何という題名だったか、主演者は誰だったか、今は全くおぼえていないが、ともかく、すいぶん前に見たアメリカ映画に、こんなシーンがあった。

 夜。パーティから抜け出した一組の男女が何やら甘い愛の言葉をささやき合い、ソーッと接吻する。と、周囲からワーッという歓声が湧く。人目を憚ってした筈なのに、実は皆に見られているのである。「あたしたち、まるで金魚鉢の金魚みたいね……」たくましい男の腕に抱かれながら、女は幾分照れくさそうに言った。

 こんど志賀暁子堕胎事件を書くように依頼された時、とっさに私の頭脳に浮かんだのはこの映画のこのシーンだった。恐らく、金魚鉢の金魚のように、いつも人様から監視されている映画界の、それもたまたまスタアなるが故に、必要以上に罰せられた志賀暁子の不幸を知っていたからであろう。

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横浜のバーの女給から一躍スターの仲間入り

 話は昭和5年にさかのぼる。そのころ帝国キネマ演芸株式会社、略称「帝キネ」と呼ぶ映画会社があった。大正9年6月創立以来、「籠の鳥」が大ヒットした以外には、これぞという作品を出していないオンボロ会社だったが、時の専務取締役立花良介は、思い切って現代劇部の確立を断行しようと考えた。立花良介はその姪を阪東妻三郎の許に嫁がせた、云わば阪妻の義理の叔父だが、杉山元をはじめ旧軍閥の将星たちとも親しくつきあっていて、なかなかの策士だ。また、当時松竹歌劇部にいた川口松太郎を顧問格として迎えると共に、大坂市外にあった長瀬撮影所の所長辻川修輔を放逐、その後任に小笹正人を据えた。

 だが現代劇部を確立するためには、どうしても、現代を呼吸しているスタアが必要だ。そして最先に白羽の矢が立ったのが、日活の中野英治だった。中野英治は岡田時彦とほぼ同じころ逗子の小学校に通っていたが、その後不良の群に投じていたのを村田実によってひろわれ、日活の人気スタアになった幸運児である。

 引き抜きは成功して、中野英治の入社第1回主演映画は、川口松太郎原作の「若き血に燃ゆる者」と決定、脚色と監督は日活から一緒についに来た木村恵吾が担当することとなった。木村恵吾はそれまで俳優をしたり、脚本を書いたりしていたが、監督をするのはこれが最初であった。ところが、中野の相手役をつとめる女優を誰にするかで、ハタと行きづまってしまった。

 その時、木村恵吾が横浜のバーの女給をしていた竹下悦子というエキゾチックな女性をひっぱって来た。それが後の志賀暁子である。彼女にはドイツ人某というパトロンがつきまとっていたが、映画入りをすすめられるとそのまま横浜から姿を消した。数日後、長瀬撮影所にあらわれた彼女は、忽ちにして所内の男たちを魅了した。芸名は、いくつも候補にのぼったが、結局「城(じょう) りえ子」と決定。いよいよ、撮影が開始された。

銀幕スター・志賀暁子 ©文藝春秋