文春オンライン

連載昭和の35大事件

志賀暁子「堕胎事件」女給からスターに駆け上がった女性の壮絶半生――あの事件ですべてが変わった

金魚鉢の金魚のように監視されていた

2019/07/14

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

note

 裁判長の氏名点呼の後、予審決定書を口早に読みあげる。それに対して暁子は「堕胎の依頼と遺棄致死の点は認めますが、死体遺棄は知りません。」と、低声で答えた。これに反し菊枝の方はくどくどと、堕胎の依頼は一応断り、8カ月で自然分娩したものだ、という点を強調した。開廷後20分、アッ気なく第一回公判は閉廷となった。

 その後、幾度か公判は開かれた筈だが、帝人事件の公判記事に圧されてか、ほとんど扱われていない。結局、志賀暁子は執行猶予になって出所して来た。

時を同じくして歴史的事件の二・二六事件が起こっている 1936年7月7日の東京朝日新聞

ジャーナリズムに殺された一人の女性

 勿論、志賀暁子の罪は当然罰せられるべきものではあったろう。そのことを何よりもよく知っていたのは彼女自身であった。だからこそ彼女は悩み苦しんだのである。だが、もう少しあたたかい目で彼女を見てやることは出来なかったものか。世間も、ジャーナリズムも、彼女が銀幕のスタアなるが故に、いささか面白がって、なぶりものにしたきらいはなかったであろうか。

ADVERTISEMENT

「もしあれが女優でなかったら、あるいは暁子自身をこうまで不幸にしていなかったかも知れない」と、この事件に関係した司法官の1人が洩らしたというが、私もそうだと思う。志賀暁子はジャーナリズムに殺された女優の1人なのであった。

 それにしても憎むべき奴は、彼女をここまで追い落した金持のパトロンである、恐喝されたパトロンはこの男だ。金のあるのをいいことに、これまで多くの女を暁子と同じような不幸におとしいれていたこの男は、その後も一向に反省の色もなく、乱行をつづけていた。

 事件後もあらゆる雑誌に手をのばして、自分の名前が出そうな記事を差しとめてもらうよう狂奔した。その場合も必ず金一封を持参しての頼みだというから、いよいよあさましいかぎりと云わなければならない。

1936年7月28日東京朝日新聞では志賀暁子自ら事件を語る「告白」を掲載した

 映画界には暁子に心からの同情を寄せる者も少くはなかった。中でも市川春代は新興を去り東京発声に移ってからも、たえず獄中の暁子に手紙を送ることを忘れなかった。思えば2人は村田実の「花咲く樹」の長期ロケーション以来の仲だという。その手紙の1つにこんなのがある。――

「暁子さん。玻璃のように凍てついた夜空に風が烈しく流れてゐます。今夜もまた滲み入るような寒さですわ。

 暁子さん。貴女はさぞお苦しいことでせうね。けれども強く生きて下さいね、凡ゆる批判の上に立って‥‥。好むにせよ、好まざるにせよ、所詮はヂャーナリズムの波に動かされる世間ですわ。」