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連載昭和の35大事件

志賀暁子「堕胎事件」女給からスターに駆け上がった女性の壮絶半生――あの事件ですべてが変わった

金魚鉢の金魚のように監視されていた

2019/07/14

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

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出所した志賀暁子のその後

 また新興キネマ会社側としても志賀暁子に同情し、表面月給をやるわけにも行かないので、渾大防五郎は親友今日出海にたのみ、菊池寛の手を経て彼女に渡してもらうことにした。こだわりのない菊地は、その通りにしてやっていたが、彼女はこれを菊池の懐から出ているものと思いこんでか、出獄後、大泉に復帰して、再び月給をもらうようになってもしばしば菊池を訪れ、いくばくかの金を頂戴して行った。

 これにはさすがの菊池も閉口して、今日出海をよび、締めくくりをつけるように命じたということである。

渾大防五郎 ©文藝春秋

 出所した志賀暁子は、やはり銀幕の世界に更生しようとした。あれほどまで、彼女を不幸のどん底に突き落した涙の道に戻る以外に更生の道はなかったのである。しかし、彼女の銀幕復帰には意外に強い抵抗があった。不道徳な女、恥知らずな女――あらゆる悪罵に耐え、罪の償いをして出て来たにもかかわらず、冷たい世間は彼女を許そうとはしなかった。

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 そんな時、恩師村田実は「桜の園」を最後の作品として、病死した。昭和12年6月29日、小石川関口台町の天主公教会で、ア・コルミエ師司祭のもとに、映画葬が厳粛に執り行われた。白い花々をもって清楚に飾られた祭壇に安置された霊柩の前に進み出た中野英治は涙に咽びながら、先生を喪った私は再び無頼なる巷の子に戻るであろう、というような意味の弔辞を述べた。志賀暁子はこの時も病院から白衣の看護婦につきそわれて参列した。黒い喪服がとてもよく似合った。最初は堕した子も村田実の胤だろうと思われたくらいに、村田の暁子に対する打ちこみ方は並々ならぬものがあった。今やその先生ともお別れだ。それを思い、これを思ううち、ついに彼女は悲しみのあまり、その場に昏倒した。

志賀暁子にはなかった「映画と心中する勇気」

 その年の9月、彼女はようやく銀幕に復帰することが出来た。更生第一回出演作品は他社と競作になった「美しき鷹」だった。だが、一度おされた烙印の容易に消えないことをなげくひまもなく、日華事変につづく愚かしい戦争は、志賀暁子も、その事件も、一切を忘却の彼方に押し流してしまった。

 戦争中、彼女は福島県の片田舎に疎開していたらしいが、敗戦後上京。ちょっと映画にも出演したらしいが、もとよりそれで再出発出来る筈はなかった。

 数年前、京橋辺のアパートに子供と2人で、童話など書いてくらしているという記事が新聞に出ていたが、彼女のいばらの道は気の毒にまだ続いているらしい。その彼女をかつぎ出して映画で一儲けしようとした連中があったとも聞いた。まったく、どこまでつづくヌカルミぞ、である。

 映画もまた実力の世界である。前身が女給だろうが、ダンサーだろうが、実力のある者は必ず栄える。情実やカラクリでどうなるものではない。

©iStock.com

 あの時、志賀暁子に映画と心中するだけの勇気と実力があったら、ああした躓きはしなかっただろうし、たとえ躓いてジャーナリズムに袋叩きにされたとしても、ノコノコとまた再起の土俵にのぼって来て、今ひと花咲かせたにちがいない。

         (シナリオ・ライター)

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
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