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連載昭和の35大事件

志賀暁子「堕胎事件」女給からスターに駆け上がった女性の壮絶半生――あの事件ですべてが変わった

金魚鉢の金魚のように監視されていた

2019/07/14

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

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明らかになっていく「堕胎事件」の全貌

 以下、少しく、そのころの「朝日新聞」の記事を中心に、事件の経過を辿ってみよう。

 事件の端緒は恐喝常習犯馬場某(38歳)が志賀の堕胎を幇助した産婆神宮寺菊枝からこの事実を聞き、志賀のパトロン某に対し500円の恐喝をはたらいたことを自白したため発覚した。神宮寺菊枝は大塚仲町の市電停留場を音羽の護国寺の方へ少し行ったところに住んでいて、馬場の情婦だった。

 7月27日、志賀は、いったん釈放され、築地の聖路加病院へ入院した。

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 馬場の共犯者として島田某(41蔵)、堂脇某女(32歳)の両名も捕まり、8月9日、いずれも送局と決定。島田が恐喝したのは約2000円、堂脇は200円だということも判明した。

 調べのすすむにつれて、産婆神宮寺菊枝は嬰児殺し主犯の疑いが濃くなり、志賀も堕胎罪に問われて、ついに8月27日、聖路加病院から市ケ谷へ強制収容された。地検の窪谷、岡本の両検事が主になって取調べたところ、志賀の供述は噓だらけであることがわかり、堕胎した嬰児は、当時8カ月で、分娩後3日間生きていたが、遺棄の結果、死亡させたことも、あきらかになった。

 9月5日、志賀暁子と神宮寺菊枝とは、堕胎及び遺棄致死、死体遺棄のいまわしい罪名で予審へまわされた。

 10月11日、この事件の導火線となった恐喝事件に対して、島田は懲役1年6カ月、馬場は懲役1年、堂脇は懲役8カ月(執行猶予4年)と、それぞれ判決が下った。

”銀幕スター”の断罪裁判に押し寄せた傍聴希望者

 越えて翌11年の7月7日、午前10時から東京地方裁判所において、西久保裁判長のもとに、第一回公判が開かれた。ちょうど二・二六事件の叛乱将校に判決が下された当日だったが、押し寄せた傍聴人は、混雑を予想して、あらかじめ発行された200枚の整理券をめぐって、押しあい、へしあい、中には腕を折る者も出る始末だった。若い男女の姿が目立って多かった。

1936年7月7日の志賀暁子初公判を伝える東京朝日新聞

 志賀暁子は保釈中の身だったが、人目を避け、特に拘禁被告出入口から、地味な単に衣ひっつめ髪という生娘のような身なりをして入廷、編笠、手錠の菊枝と被告席に着いた。