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映画「霧笛」の成功……淋しさを埋めるように男性と

 志賀暁子、本名は竹下悦子。たしか明治44年、長崎の産だ。父は台湾の知事だったという。彼女はその父と丸山花街の名妓との間に出来た子であるとも伝えられているが、真偽のほどは知らない。少女時代を長崎のカトリックの女学校で送った。

 冷たい家庭。頑固な父。――思春の彼女の悩みは深かった。だが18の春、ついに意を決した彼女は、家を飛び出した。人形町のユニオン・ダンスホールの踊り子となったり、酒場の女給になったり、刺戟を追うその日その日がつづいた。そうした彼女の頽廃美に最初に目をつけたのが木村恵吾だった。

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 しかし「霧笛」の成功によって得たスタアの栄光も、彼女の心のどこかに巣くっている空虚さを充たしてはくれなかった。東京を離れて、ひとりぼっちの宿屋住まい。仕事の合間には、フランス語は知らないけど、好きなフランス文学の訳書をひもとくのがたのしみ。いや、そんな時は又ひとしお淋しくてやり切れない。こうした彼女がその淋しさをなぐさめてくれる男性を求めるようになったことは、当然の経路と云える。

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「情熱の不知火」の撮影の最中、東京へ足しげく通う暁子の姿が

 昭和10年の夏、村田実は志賀暁子を片岡千恵蔵に配して「情熱の不知火」の製作に著手した。原作は国広周禄(村田実の筆名)、脚本は山上伊太郎だった。その頃まだ批評家の末席を汚していた私は、おこがましくも次のように酷評し去った。――

 時代遅れの時代劇、いうならば片岡千恵蔵の猛省を促したい代表的不勉強作である。或るひとはこれを「霧笛」と匹敵するものと賞讃してやまぬ。だがここのどこに唐津や長崎の幕末開港風景が記されているか。妖しきオルゴールの音に、おらんだ模様の飾り立てに、エキゾチックなうつくしさを感ずるには、セットも意匠もすべてお粗末である。しかも、こうしたお粗末な魅力なき場景の中で、テンテンハンソクし、手をのべて哀願し、媚態をつくる女の精神状態を、われわれは不思議にこそ感ずれ、よろこび迎えるわけには行かない。村田実の演出の古さはどうだ。踏路社時代から一歩も出ておらんではないか。これを平気でやっているところが、それ、アナクロニズムというのである。千恵蔵もこれに合流して、甚だ大時代な、ハデな動きを見せまする。台詞をいうのも、或る時は歌舞伎的な誇張を露骨にさらけ出し、或る時はふだんに変らぬ深刻がり方である。時代劇からまったく剣戟を取り去ってしまうことが真面目に考えられている際、筋が渋滞すると、すぐ刀を抜かせてこれを切りひらこうという量見もほめられない。それは連続活劇のすること。志賀暁子も感心せず。

「情熱の不知火」の撮影中、志賀暁子はしばしば東京との間を往復した。わけは誰にもわからなかったが、会社側はたまたま彼女と同じ旅館に止宿していた製作部の刈田勉という青年に命じて、その行動を監視させた。彼女が東京に行く時は刈田青年もそのあとを尾けるのだが、一向にシッポはつかめない。後で考えれば、彼女はその時すでに堕胎の手術を受けに東京へ通っていたのである。

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