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 映画雑文家の雄南部僑一郎はその少し以前に、四条の某旅館において、偶然志賀暁子と泊まりあわせたことがあると云って、その時のことを次のように書いている。

「彼女はその時、私のとまってゐることを知らなかったが、宿の女中は、彼女のことに就いて、あのやうに乳房が真黒になってゐるのは、只事でない、よくあの軀で、寒い夜徹夜で仕事が出来るものですねえ、御大事になさいよ、と云ってあげたらば、もう、何でも、五カ月くらゐにはなるらしい、と、そっと云っておられた、‥‥」

「情熱の不知火」の撮影最中に、渾大防五郎は彼女から是非折り入って会いたいことがあると云われたが、そのままにしておいた。今にして思えばこの事件について打ちあけたいことがあったにちがいない。そうこうするうちにクランク・アップの日が近づいた。と、或る日、太奏署から内密にしらせがあって、撮影が完了すると、その足で、彼女は東京へ護送され、池袋署に留置された。

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大スキャンダル「志賀暁子堕胎事件」報道の当日

 それから数日後、某通信社へ某映画会社の人間から「新興の志賀暁子が池袋署に入っていますよ」と、わざわざ電話で知らせて来た。早速、しらべてみると、彼女は京都嵯峨の千恵蔵プロダクションで「情熱の不知火」に出ていたが、それを終え、次に新興谷津撮影所で三好十郎の「傷だらけのお秋」(勝浦仙太郎監督)に主演するため東上した後だということが、わかった。谷津撮影所に問いあわすと、まだ来ていない、という返事だ。池袋署の方へは司法記者をやって、いろいろさぐってみたが、志賀暁子という婦人はいない、と、剣もホロロの答えしか得られない。そこで記者は谷津撮影所の人事係を呼び出し、志賀暁子の本名が竹下悦子であること、彼女の東京の住居が麻布の某アパートだということを、きき出した。すぐにアパートに自動車を走らしてみると、管理人が出て来て、2,3日前に引越したばかりだと言う。その一方、池袋署に押しかけた記者は、竹下悦子を留めているだろう、と強硬に詰め寄った。その結果、署の方もカブトを脱ぎ、留めてあるが、どうか可哀そうだから書かないでやってくれ、と折れて出たそうである。事実、署としては、もし新聞に書かれたことを本人が知ったら自殺するかもしれない、と、それを心配しての親ごころだった。

©iStock.com

 ところが、その数時間後には、「志賀暁子堕胎事件」は全国的に、ビッグ・ニュースとして報道されてしまったのである。昭和10年7月18日――彼女の最悪の日であった。