「不快」か「なごやか」か 事件を象徴する怪写真の真偽
「両人が和服姿に晴れやかな微笑を浮かべ、朴がイスに座したる上に文子が腰を下ろし、一見春画を見る如き不快を感ぜしむるものである」1926年7月30日の報知新聞は、前日29日に政治家や報道関係に投げ込まれた怪文書に載った朴烈と文子の写真について、「朴烈と金子文子の奇怪な写真配布さる」の見出しで報じた。「これは偽写真だ」「偽ものと断言する」という刑務所長や法相の談話も。同じ写真を『明治百年100大事件』は「親しい関係の男女の愛情がこぼれるような、なごやかな写真である」と書いた。「不快」か「なごやか」かは大きな違いだが、見る側の先入観と意図で変わるのだろう。
怪文書は「『大逆事件の共犯者である朴烈と文子の両人は男囚監と女囚監に別れて収容されているはずであるにもかかわらず、この二人の面会を許し、或は入浴等も自由にさせるなど、不当に好遇を与えている、これは刑務所の紀律が甚しく紊乱している証拠である』として政府の責任を追及したものであった」(『警視庁史 大正編』)。最初に報道した報知も「あまりに奇怪な写真であるがため、あるいはためにせんとする者の巧妙な偽造かとも思われる」が、本物であれば「司法当局空前の大失態で、当局の責任は到底軽微ではすまざるべく、必ずや重大な結果をもたらすであろう」と予測した。同紙は「あまりに醜怪な右の写真を国民の前に公にするに忍びず、あえて掲載しない」と写真を載せなかった。
政争を引き起こした大事件の末路
当時は憲政会の第1次若槻礼次郎内閣。大正天皇の病状が日に日に悪化し、結果的に大正最後の年となったこの年は、大阪・松島遊郭移転に絡む疑獄事件と、陸軍機密費横領事件が表面化し、与党と野党政友会の間で足の引っ張り合いの泥仕合に。期待された「2大政党時代」は名ばかりになっていた。その中で「社会的反響が大きく、また政治的影響が最も大きかったのは朴烈怪写真事件だった」(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)。「政友会が政府攻撃の具に供して政治問題化し、世に大きな波紋を投げたのであった」(『警視庁史 大正編』)。その後、怪写真は、本編に登場する立松懐清・予審判事が、2人が同席するのに便宜を図った上、自分で撮影。獄中の朴から人手を介して外部に出たことが分かった。連日、国会内外での追及と反撃、新聞の過熱報道が繰り広げられた揚げ句、立松判事は追い込まれて辞職。さらに8月末、首謀者として国家社会主義者の北一輝(二・二六事件で死刑)が検挙され、翌27年1月には内閣不信任案が提出されるなど、泥沼の政争の最大の原因となった。
実は金子文子は怪写真が出る6日前の7月23日、収監されていた宇都宮刑務所栃木支所の監房で首つり自殺していた。23歳だった。新聞各社の報道は怪写真とほぼ同時。朝日の31日夕刊は1面トップで「鉄棒に麻糸をかけて朝の光の下で縊死 わづか十分間余の監視の眼を盗んで獄死を遂げた金子文子」と報じ、その右下2段で「怪文書犯人 大捜索を開始す」と警視庁の動きを伝えている。遺書などはなく、動機ははっきりしないが、想像はできる。本編にある「英雄主義」以上に、自分たちが否定していた天皇の名で恩赦を受けてまで生き延びたくなかったように思える。幼いころから父母に見捨てられて貧しく寂しい、砂をかむような人生を強いられた。特に、7年間にわたる朝鮮の叔母の家での「地獄」のような体験は、肉親による仕打ちだっただけに大きかったのではないか。それを本編のように「特異な性格」で片付けられるのか。「今度の事件を具体化したような(ことを)未然に防ごうと(いう)思し召しなら、この際です。私を殺してしまわなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても、再び私を社会に出したなら、必ず必ずやり直してお目にかけますよ」と文子は立松判事に“宣言”している(予審尋問調書)。