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出所後の朴が歩んだ社会運動家としての人生

 文子の死後、朴は4カ所の刑務所をたらい回しにされた。獄中で詠った短歌には、ある種の諦観と落ち着きが感じられる。「此の我が身秋の木の葉と散るならば春咲く花の肥やしともなれ」。日本の敗戦後の1945年10月27日、秋田刑務所大館支所から出獄。獄中にあったのは22年2カ月間で、政治犯として最長記録という。結成されたばかりの「在日本朝鮮人連盟」秋田県本部は大館駅前に1万7000人を動員。「朴烈出獄歓迎会」を開き、市内をパレードした。「祖国解放」のシンボルで「在日朝鮮人のスター」に祭り上げられたということだろう。その後、思想信条の違いなどから在日朝鮮人の間で対立が深まり、朴烈は一派に推されて「新朝鮮建設同盟」の委員長に就任。46年10月、改組された「在日本朝鮮居留民団」の初代団長となった。当時、大韓民国臨時政府の国務総理だった李承晩を支持し、同政府の国務委員にも就任した。

戦後の朴烈 ©文藝春秋

 しばらくして、年の離れた女性と再婚。一男一女が生まれた。しかし、長い獄中生活の影響は大きく、「彼は独断であり、憎愛が極端であり、偏狭性のために、多人数を統率する人格を欠いている」(金一勉『朴烈』)と長年の親友が語るように、偶像的人気はあったが、指導的人格は欠けていた。1949年の団長選挙に破れて組織を追われ、帰国。1950年の朝鮮戦争の際、逃げ遅れて北朝鮮に連行された。平壌で「南北平和統一委員会」の副委員長を務めたといわれる。1974年1月17日、死去。文子の死から48年がたっていた。満71歳のはずだが、1月18日の朝日夕刊に写真入りで載った「新亜=東京」の訃報は、「平壌放送が発表」とし、「77歳」としている。「『在北平和統一推進協会』の会長となっていた」とも。「大逆事件の首謀者」「民族独立運動の英雄」という「看板」を徹底的に利用され、自分も利用した後半生だったようだ。それだけ「朴烈大逆事件」のインパクトは強大だった。だが、それで本人は満足だったのだろうか。

「私は犬ころである」朴烈と金子文子の出会いから2人の関係

 東京の片隅で生きるために、朴がこなした仕事は本編にあるが、文子も仕事を転々とした。新聞の夕刊売り、夜店での粉石鹸売り、「女中」、印刷屋の植字工、女給、朝鮮ニンジン販売……。いまで言うなら、2人とも底辺の非正規労働者だった。文子は「犬ころ」という詩の作者として朴を知った。「私は犬ころである。空を見てほえる。月を見てほえる。しがない私は犬ころである……」。2人は文子が働いていた新宿のおでん屋で会い、意気投合。すぐ同棲生活に入った。「私の探しているもの、したがっている仕事、それはたしかに彼の中にある。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている」と文子は『何が私をこうさせたか』に書いている。この時、それぞれ朴は20歳、文子は19歳になったばかりだった。朴は「彼女の虚無思想的気持がおれのそれと一致しているのを知って、同志として共同生活をすることを決意した」。文子も「幾度か朴と主義思想を論じ合いましたが、朴はほとんど私と同様に権力に反逆して生物の絶滅を期する思想の持主でありました」と述べた(予審尋問調書)。

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 朴は黒濤社の機関誌「黒濤」を2号出した後、1923年に「不逞社」を結成。機関誌「太い(ふてえ)鮮人」を出した。差別語を逆手にとったわけだ。創刊号で朴烈は「『太い鮮人』発刊に際して」と題し、「日本の社会でひどく誤解されている『不逞鮮人』が果して無暗に暗殺破壊、陰謀をたくらむものであるか、それともあくまで自由の念に燃えている生きた人間であるかを、我々と相類似せる境遇にある多くの日本の労働者諸君に告げるとともに」(以下、検閲で抹消)と述べている。これは建前ばかりだとは思えない。文子も第2号に「所謂不逞鮮人とは」の見出しでもっと戦闘的とみられる文章を書いているが、抹消部分が多く、完全には意味が読み取れない。ただ、2人の関係は終始、文子の方が“腰が据わっている”印象。本編で書いているように、実際も文子がリードする形で朴烈に覚悟を迫っていたのかもしれない。

「太い鮮人」創刊号