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「朴烈事件」を取り巻く”誤認”の数々

 その点に限らず、今回の本編には問題が多い。著者の江口渙氏は、1933年に虐殺された作家・小林多喜二と親交が深く、葬儀委員長も務めた左翼作家で、無政府主義にも理解があったが、朴烈事件との関わりは不明。記憶を基に書いたようだが、記述には誤りが多い。朴烈の生年は1902(明治35)年なのに、1899(明治32)年としている。文子の故郷も静岡県ではなく横浜。自殺も「6月のはじめ」ではない。文中「愛人金子文子」とあるが、2人は獄中で結婚している。特別裁判初公判の日付も誤っている。よくこういう原稿がチェックされずに掲載されたと思う。2人が大逆罪に問われた理由が関東大震災時の朝鮮人虐殺の理由づけだったことや、その罪状を2人が自分から引き受けた経緯は、作家らしい筆致で説得力があるが、いずれも1つの見方だろう。

小林多喜二 ©文藝春秋

 問題が多いといえば、この事件の新聞報道もそうだろう。「事件」を最初に報じたのは、震災から約40日後の1923年10月10日の朝日夕刊か。検閲で文字が一部消えているが、1面2段で「大〇〇発覚 全国的に大捜査」の見出し。どうしてこの事件と分かるかというと、「急電を発して逮捕したるを初め市外代々木富ヶ谷某所から〇〇」とあるためだ。当時、朴烈、文子夫婦はそこに住んでいた。「内容は○○○〇の○○○〇よりなる○○○〇の大陰謀が発覚せるもので……」。特ダネを検閲でズタズタにしたのか。ただ、予審尋問での陳述状況と突き合わせると疑問もある。記事が全面解禁になったのはそれから2年以上たった1925年11月25日夕刊。「鮮人朴烈等にかかる恐るべき不敬事件 震災に際して計画された鮮人団の陰謀計画【本日記事差止め一部解除さる】」(朝日)、「震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件 罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ」(東京日日)。朝日に「大逆罪」の記述がなく、東日は「金子ふみ」としているのが不思議。「鮮人」という差別語が大手を振って紙面に登場していた。大審院の特別裁判初公判は26年2月26日。「朴夫妻、朝鮮礼装で裁きの庭に晴れ姿 士扇を斜に得意げに入廷」(27日東日夕刊)。「鶴を織った紫の朝鮮服に黒の紗帽という礼装で、手に紗扇を持ち刺繍のある白靴を穿ち……」(同日時事新報)。本編で判決の日の服装のように書いたのは、この初公判の日のことだ。

これが「朴烈事件」の初報か、文字が抹消された朝日の記事

後の「大本営発表」に通じるメディアの態度

 第一審で最終審である公判は4日連続で開かれたが、冒頭の6分以外は非公開。27日朝日朝刊は「聞くところによると、朴も文子も憎々しいまでに落ち着きはらって恐ろしい企てを述べたらしく」と先入観丸出し。28日の東日夕刊も、2人が2日目は和服だったことからか、「飽くまでも…お芝居気分……出廷した朴夫妻」の見出しを付けた。同年3月25日、判決。「満廷を見渡していた金子文は淋しくひとみを落とし、何やら小さい声で口ずさみながら双手を動かし、続いて朴も『裁判長ッ……』と言いかけるや遅し、廷外に引き出され、さびしい後姿に一生の名残りをとどめて刑務所へ送られた」と26日朝日夕刊1面トップ記事は書く。これに限らず、紙面での2人の表情を「寂しい」と表現した記事が目立つ。「天皇、皇太子を襲おうという、天人ともに許さざる不敬の重大犯罪だが、境遇には同情を禁じ得ない」という認識が記者にあったようにもとれるが、「本当は冤罪では?」という疑問が根底にひそんでいたのではないか。

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 あざとさが表れたのは恩赦決定の場面。「聖恩逆徒に及び朴烈夫妻は減刑」「仁慈に富ませられる雲上の思召(おぼしめし)はこの逆徒の上にも加えさせられて、特に減刑の恩命が降ることとなった」(3月26日東日朝刊)。そして、恩赦を言い渡した際の記事。「『死から生へ』の輝く歓喜」「かねて死を覚悟していた彼らではあったが、出し抜けの恩命を拝した時は、死より生への歓喜がサッと走って、しばらくは感謝の眼をしばたたいていた」「再び監房に下げられる時の両名の足どりはさすがに軽かった」と4月7日東日夕刊は書く。刑務所長の談として「さすがにあるショックを感じたらしく、ヒョイと顔をあげ感謝の色を現わし、快くお受けして引き下がったが、文子は『ありがとう』と口ごもったようにも思った」と付け加えた。「文子は天皇からの特赦状を受け取るや、刑務所長の目の前で破り捨てた」という弁護士の証言とどちらが真実に近いのか。自殺という結果から見ても明らかだろう。文子は以前から短歌を作っており、判決を受けた時のことを「我が心嬉しかりけり公判で死の宣告を受けし其の時」と詠んでいる。「天皇の恩沢」を強調するとしても、ここまで書くか。メディアの態度はのちの大本営発表の受け売りにまでつながる。罪は重い。