「もはや芸術でも演芸でもなくなった」
明治末年から、大正年間を経て、昭和の始めまで、いかに映画説明者なるものの存在が華やかなりしものであったか。映画そのものは駄作であっても、説明者さえ優れていれば客かジャンジャン来たということさえあった。まったく、私たちは映画劇場の王位についていたのである。
それがなんと、トーキー全プロとなるや、私たちは単なる口上使いとなり下った。上手も下手もなくなってしまった。声の大きい奴が、スピーカーの音量に逆らって、喋れば事足ることに相成った。もはや、芸術でも演芸でもなくなった。
それでいて、給料は全盛時代のまま貰っているのだから、なんとも申訳ない気がする。
――そんなら、さっさと辞めちまえば好いじゃないか?
それがそういくもんでない。なにしろ20年間もそれで飯を食っていた稼業だ。そう、あっさり辞められるものでない。第一、辞めてから何をするのか? そのあてが、さっぱりつかない。
もっとも、放送は大正14年から始まっていた。しかし、月1回ぐらいの出演で、金30円なりではどうにも仕方がない。原稿もポツポツ書いてはいた。しかし、1枚金2円なりで、月に30枚書いたところで、しれたものである。漫談も時々、口が掛るけれども、まだ業とするには到っていない。
昭和7年になると、関西、関東の松竹系映画館で“トーキー争議”が始まった。次いで東京の日活系各館で始まった。
殊に勇ましかったのは、神田日活館と新宿帝都座の争議で、警官との間に大乱闘事件が起り数十名のブタ箱入りがあり、新聞もデカデカととりあげて書きたてた。セロ弾きの某君(神田日活舘)などは、ベルの管を振って警官の脳天をどやしつけたという話。
「いよいよクビだな!」筆者が悟った”職業・弁士最後の瞬間
これらの争議は、いずれも社会民主々義や準共産主義の争議専門家が指導したのであったから、従来のカツドウ屋争議とは、おのずから異った様相を呈した。ある争議団の委員長は、指導者側と、団員と、会社側との三方から攻めつけられて、自殺を遂げた。
――困ったことだが、早晩、武蔵野館にも同じようなことが起るぞ!
私は、ひたすら恐れていた。そういうことに対しては、生れつきの意気地なしで、ストライキなんてものは、聞くだけでゾッとするのである。徒党を組んで、なにか主張を通すということは、どうも私の趣味に合はない。
そのころ私は、毎月の末に、父の家に一定の金を届けていたのであったが、
「新聞で読むと、だいぶ諸方でストライキをやっとるようだが、お前の館はどうか?」
と、5月末に行った時、父から心配そうに聞かれた。
「武蔵野でも、いずれやりましょう。」
「そうか。然し、お前は加わるなよ、見っともないからな。」
「ええ、大丈夫です。」
と、私は答えた。
その直後ともいうべき6月2日(ストライキ勃発の3日前)私は重役の市島亀三郎氏に呼ばれて、武蔵野館裏3階の事務所に行った。市島氏は武蔵野館株式会社から館を借りて、昭和5年の暮まで経営をしていたが、トーキーの興行で大損をしたので、パラマウント社に転貸した。その時は、従業員全部引き継いだのである。ところが、この度、パ社から更にSPチェーン(松竹洋画部とパ社の共同)へ転貸することになった。そのことは従業員一同、大分以前から知っていた。が、まだ公式には何の申しわたしもないのであった。
「実は、今度、この館をSPに貸すことになりましてね。それについて貴方と御相談したいことがあるんですが……」
と、いかにも云いにくそうに市島氏が切り出した。私は、とたんに、
――ははァ、愈々馘首だな!
と覚った。私は、それまでクビを申しわたされた経験がないのである。
SPチェーンでは既に、説明者を全廃していた。スーパー・インポーズのパ社日本版はもとより、そうでない映画にはサイド・タイトル(スクリーンの横に、も一つ小スクリーンをおいて、幻灯で字幕を出す)をつけて間に合わしていた。