「トーキー来襲」に生活権を侵害されたカツ弁が決然起ち上ったストライキの真相をその第一人者たりし筆者が執筆

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「反トーキー・ストライキ」(解説を読む)

徐々に増えた”トーキー映画”の余波

 所謂“トーキ争議”は主として昭和7年の春から夏にかけて、方々で起ったものである。私が直接関係した争議は、その6月5日に始まり、10日あまりで終った。

 トーキーの常設劇場における興行は、昭和4年5月9日から1週間にわたる、新宿武蔵野館のフォックス映画「南海の唄」「進軍」が日本最初である(大正初年のキネトフォンやそれから十数年後に現れた“物言う映画”フォノ・フィルムなどは問題外。)

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「南海の唄」は1巻もので、ハワイ音楽を演奏するだけ。「進軍」は3巻もので、ラッパを吹く老人を主人公にした人情劇。これだけでは番組にならないから、無声映画「死の北極探検」と「巴里酔語」の2本を加えて興行した。

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 武蔵野館が、その次にトーキーをやったのは、ユナイテッド映画「アリバイ」で、これは7月11日からであるから、最初の「進軍」の時から2ヵ月も経っている。その間は勿論相変らずの無声映画で、有名なジャン・エヴァスタンの傑作「アッシア家の末裔」は、この前週7月4日の封切だ。

 こういうふうに、トーキーは少し宛無声映画の番組の中に割りこんできて、昭和5年にはトーキーと無声が半々ぐらいになり、昭和6年あたりから、トーキー全プロとなってしまった。

 さて、そうなると私たち説明者なるものの存在が、厄介千万なものと相成る。

映画の声と弁士の声…… 複数の声で映画を見る”世界的珍現象”

 それでも、パラマウント映画「モロッコ」の日本字幕版(スーパー・インポーズ)が出るまでは、どうやら説明者の存在意義があったのであるが、これでギャフンと参った。昭和6年2月2日、邦楽座でこの試写会があり、私も出かけて見物したが、

 ――愈々、これで吾が同業は、引導を渡されたわい。

 と、私は思った。

 以上は、外国映画関係の話で、日本映画の本格もの「マダムと女房」が出たのは、昭和6年の8月であるから「モロッコ」よりも半年ほど後である。日本映画がトーキーになれば、説明者が無用になること、外国映画の比ではない。しかし、ストライキ騒ぎを起す必要に迫られたのは、洋画説明者の方がずっと早かったのである。

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 昭和4年から昭和8年までの5年間は、私の生涯で最悪の期間であった。昭和16年から昭和20年までの5年間も、戦争で厭な期間であったけれども、私個人の心的状態としては、その厭さ加減において、遥かに前の方がイヤまさるのである。

 “トーキー来”の声に散々脅やかされて、既に昭和3年ごろから、おちおち心の安まる暇もなかったところへ、愈々、昭和4年にトーキー興行が始まり、昭和6年トーキー全プロになってからも、私たちは説明台に立っていたのである。

 その心苦しさ、その馬鹿々々しさ、今日から思ってみても、情けない極みであった。

 画面では、ゲーリー・クーパーや、グレータ・ガルボや、エミール・ヤニングスや、マルレネ・ディートリッヒが、ベラベラと喋っているのに、横っちょから私たちがまたベラベラと喋る。まさに世界的珍現象であった。

 マイクロフォンを使って喋るということに当時は興行師も私たちも思い到らなかったのである。たとえ、思い到ったとしてもこのころはマイクロフォンなんて高価なものは、経済的にあきらめたわけだ。

 客こそ災難である。英語や、ドイツ語や、日本語やが、同時に鼓膜を襲うのであるからなにがなんだかわからなくなる。さらばといって、説明者なしでトーキーの外国語が解るという観客は、甚だ少数なのであるから、劇場側でもやむなく月給を払って雇っておくという次第だ。