羽田空港の下を通る点線=東京港トンネルへの憧れ
大袈裟なことをいうようだが、記者はこのトンネルを通るのが夢だった。
その存在を知ったのは昭和50年頃だったろうか。子供の頃から地図を眺めるのが好きだった少年は、ある日、地図に描かれた「羽田空港の下を通る点線」を見つけた。
これは何か?
インターネットもない時代に、調べようもない。周囲の大人に訊いてもわからない。悶々と過ごしていたある日、新聞だか鉄道雑誌だったか忘れたが、これが貨物列車専用の海底鉄道隧道「東京港トンネル」であることを知った。
青函トンネル開通前の当時、「海の下」を鉄道で通れるのは関門トンネルだけだと思っていた。ところが、意外に近く(当時横浜在住)に海底トンネルがあるとの情報がもたらされたのだ。
「通りたい!」
と少年は思ったが、貨物列車専用だから通れない。関門トンネルも、その後に開通する青函トンネルも、お金さえ払えば通れる「海の下」だが、すぐそばにある「海の下」はお金を出しても通れない。そこを通るには貨物列車の運転士になるしかないのだ。
このトンネルを通るために貨物列車の運転士(当時は「機関士」といった)になろう、と本気で考えた。その頃は貨物列車にも車掌が乗務していたので、運転士が無理なら車掌でもいい――と、妥協案を立ててまで夢見たのだ。
昭和で見た夢は、平成を経て令和に至り、ついに実現した
結局そのどちらにもなれなかった元少年は、大人になっても東京港トンネルへの憧れが消えなかった。せめてトンネルの出入り口だけでも見ようと、聖地巡礼もした。
海底トンネルの川崎方の出入り口は、京浜急行大師線の終点、小島新田駅を出てすぐのところにあり、貨物駅全体をまたぐ跨線橋から眺めることができる。橋の上からトンネルを見下ろし、生まれ変わったら今度こそ貨物列車の運転士になろう、と思った。
ところが、生まれ変わる前に夢がかなった。昭和で見た夢は、平成を経て令和に至り、ついに実現の時を迎えたのだ。
わが第4072列車は、幾筋もある線路の中から、トンネルに向かう1本を選び抜くと、徐々に「くぼみ」を潜航し、トンネルに突入した。
東京港トンネルは複線だが、そのほとんどの区間を上下線が別々に掘られている。しかし、川崎方の開口部から僅かな区間は上下線の間に仕切りがない。トンネルに入ってすぐの10時00分。いままさにトンネルを出ようとする下り列車とすれ違った。「東京タ」を9時50分に出発した千葉貨物ターミナル駅行き第4095列車。お互い定時運行だ。
両脇の壁をすぐ近くに感じる5分間のトンネルの旅
トンネルの中で上下線が分かれた。見た目は単線だ。
列車の運転席の後ろに立って、前方を眺めながらトンネルを通る時は、複線よりも単線のほうが断然楽しい。車輛のすぐ両脇まで壁が迫った暗く狭い空間を、高速で安全に走り抜ける迫力は、鉄道にのみ与えられた快感だ。
それだけでも愉快なのに、いま自分の頭上には海があり、空港があり、飛行機もある。そんな海底の下を、人が乗れないはずの貨物列車で走っているのだ。感動は尽きない。
海底トンネルを5分ほど進むと、前方に光が差し込んできた。夢にまで見た東京港トンネルの旅が、ついに完遂した。
地下空間から地上に顔を出すと、そこが終点の東京貨物ターミナル駅だった。
林立する倉庫群、広大な敷地にいくつもの機関車や貨車が連なり、ホームにはコンテナが並んでいる。闇に閉ざされた狭いトンネルから、突如明るくて広いターミナルに出てきた時、母親の胎内から生まれてきた瞬間の光景が連想された。ものの30分貨物列車に乗るだけで、色々なことに思いを馳せられるものだと、わがことながら感心する。
日本一の広さを誇る「東京タ」の中心部に差しかかった第4072列車は、速度を落としながら10本ある着発線(列車が本線に向けて出発し、本線から来た列車が到着する線)の中の「着発二番線」に入線した。10時08分、定刻通りの到着。