解説:汚職が“箔付け”になった新聞人と、転落のきっかけになった政治家

 いまも首都東京にある官公庁でさまざまな形の汚職が起きる。しかし、大正の終わりから昭和の初めにかけての東京市会(現在の東京都議会)ほど、疑獄の巣窟、「汚職のメッカ」と呼ぶにふさわしい存在はなかったのではないか。「明治時代に東京市が誕生して以来、明治・大正という二つの時代はもちろん、昭和に入ってからも東京市をめぐる汚職事件は絶え間なく続き、毎日のように新聞紙面をにぎわしたといっても過言ではないほどであった」と「東京百年史 第5巻」も認める。

 原因について触れたものはほとんどないが、1920年代前半に東京市長を務め、本編にも登場する後藤新平を研究した論文・小原隆治「後藤新平の自治思想」は、「東京市会では自由党の領袖・星亨が議員に当選したころ(1899年)から、自由党――政友会系会派が勢力を拡張して公然と利益誘導型政治を展開し、またそれと軌を一にして頻々と汚職事件が起きた」としている。星亨は弁護士、官僚出身の精力的な政治家で東京市会議長も務めたが、名前をもじって「押し通る」と異称されるなど、強引な政治手法で知られた。田中角栄元首相と並べて語る人もいる。彼が力を持った時代に汚職の温床ができあがったことは否定できないようだ。

星亨 ©文藝春秋

「水道管は外国へ発注」と主張した渋沢栄一が襲撃される事件

 問題は星が登場する前からあった。京都から遷都して20年余りたっても、首都東京は依然としてインフラが整っていなかった。その一方で全国から人が集まるようになり、都市化と人口集中が進み始めた。1890年、コレラが大流行して全国で約3万5000人が死亡。東京では伝染病予防を最優先に、上水道の敷設が予算化された。問題になったのが水道管(鉛管)の発注先。国産が望ましいとされたが、当時の日本にはまだ技術も経験もなかった。東京市参事会のメンバーだった「日本資本主義の父」渋沢栄一は、「外国に発注すべきだ」と主張したが、馬車で外出中、刀を持った男に襲撃された。渋沢にけがはなかったが、男は水道管国産を主張するグループの一員とうわさされた。

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 風向きが変わって1893年、東京市会は「日本鋳鉄合資会社」を発注先に決める。しかし、その会社は設立されたばかり。工場もできていないうえに、「うわさの男」が絡んでいた。相場師の「雨敬」こと雨宮敬次郎。彼が経営の実権を握っているのは周知の事実。その後、同社は次々市や東京府に注文をつけた揚げ句、契約解除を申し入れる。警視庁は雨敬や市議らを逮捕したが、結局、彼らが罪に問われることはなく、会社側の数人が軽い刑に処されただけだった。

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