「一生は清貧と戦った政治生命の全てであった」
国会図書館憲政資料室には、志村の弁護を担当した七条清美弁護士が寄贈した「七条清美関係文書」があり、その中に志村の予審尋問調書も含まれている。それを読むと、志村が贈賄に関わった経緯は次のようだった。
京成電鉄の市内乗り入れ案が東京市会にかかっていることは新聞で知っていた。社長の本多貞次郎は千葉県議時代の同僚で、その後2人とも床次と行動を共にしたため、「平常懇意にしておりました」。ある日、政友本党時代の院外団で東京市会議員の茂木久平から電話があり、「乗り入れが難しい様子だから本多と相談してみては?」と言われた。もう一人の市議天野富太郎からも同じことを言われたため、本多に2度会った。2度目に「知っている市議がいるなら、話をしてくれ」と依頼され、茂木と、茂木経由で天野に「本多から頼まれたから、乗り入れにぜひ賛成してくれ」と伝えた。その後、本多に会うと、「乗り入れ問題もお陰で通ってありがとう」と言われ2000円を受け取った。その中から茂木と天野には計1000円を渡したという。
供述を読むと奇妙な感じを受ける。市議から聞いた話を相手の会社に持って行って、それを市議に返しただけ。何か、仲間うちで金になる「ネタ」を探し合って金を引き出し、山分けしている感覚。日常茶飯事のようで、これでは罪の意識は薄いだろう。そうした体質が当時の国会議員や東京市会周辺には根づいていたといえるのかもしれない。
志村はその後、持病の悪化に苦しみ、失意のうちに死んだ。最初の妻と長男を病気で失い、寂しい生活だったと地元紙にはある。1930年4月12日の東京日日新聞千葉版は「豊なりしも家産も政治に蕩尽」の見出しで「一生は清貧と戦った政治生命の全てであった」と書いた。その中で謝礼として受け取った金は、人生の転落のきっかけになったようだ。その金を渡した本多も予審調書で志村のことを「義理堅い男ですから」と述べた。
犯罪は自業自得でも、それが人生において持った意味は、三木や正力とは全く違うものだったことだけは確かだろう。
本編「東京都大疑獄事件」を読む
【参考文献】
▽東京百年史編集委員会「東京百年史 第5巻」 東京都 1972年
▽小原隆治「後藤新平の自治思想」 「時代の先覚者 後藤新平1857~1929」所収
藤原書店 2004年
▽松山巌「世紀末の一年」 朝日選書 1999年
▽御手洗辰雄「三木武吉伝」 四季社 1958年
▽御手洗辰雄「正力松太郎・伝記」 大日本雄弁会講談社 1955年
▽佐野眞一「巨怪伝」 文藝春秋 1994年
▽「七条清美関係文書」 国会図書館憲政資料室蔵