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「正力のところに『お中元』を十万円持って来た」

「京成事件」では、元読売経済部長だった後藤圀彦が京成の専務になり、正力に泣きついて乗り入れ実現への協力を懇願。正力はそれを三木と、政友会の大物である衆院議員兼市議の中島守利に伝え、協力を依頼した。それでも6回目の乗り入れ許可申請は委員会で否決されたが、正力と三木の強い圧力で本会議で逆転可決。京成は都心乗り入れの悲願を果たした。その後のことは「三木武吉伝」と「正力松太郎・伝記」の記述を引こう。

「後藤は正力のところに『お中元』を十万円持って来た」「正力は三木と中島とに五万円ずつ渡した。手元には一文も残していない。三木はまたその金に自分の財布から若干金を出して例年の通り盆前に、輩下の連中に分けてやった。正力が一文も懐に入れなかったと同様、三木も一文も残していない。事件はこれだけである」(「三木武吉伝」)。「昭和三年といえば、読売新聞がやっと十万台を越えて伸び始め、正力としては五千、一万の金にも困っていた時である。この十万円から頭をはねてもよかろうし、あるいはそっくり使ってしまっても構わなかったかもしれない。しかし、一厘も手をつけないのである」(「正力松太郎・伝記」)。

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汚職事件による正力への「有罪判決」が証明した意外なこと

 佐野の言葉が実感を伴って聞こえてくる気がする。汚職事件を起こしておいてそれはないだろうとも思う。結局、裁判でも事実関係については争わなかったようだ。4年後の1932年12月20日、控訴審判決で三木の懲役3月、正力の懲役2月執行猶予2年が言い渡された。さらに3年後に刑が確定する。それでも「三木武吉伝」は「三木、正力とも、なるほど金の取り次ぎはした。しかし検事は公判廷において『本件は純粋に友情によって尽力したもので』と、両人が一文も私せぬことを明確に述べている」「疑惑は受けた。また刑罰の言い渡しもあったが、前後7年かかって、裁判は三木と正力とが、一銭の利益も受けていないのみか、輩下を愛し、清廉な人柄である点を公に証明してくれる結果となった」と書く。

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「正力松太郎・伝記」も「検事は公判において『この事件は正力なかりせば起こらなかった事件であるから、罰金刑ですますわけにはいかぬから、禁錮四カ月を求刑する』と求刑したが」「その間、正力個人には何らの利得を求めていないことは明らかであり」「裁判はかえって正力の公明な人格を証明し、一銭の利益をも求めていなかったことを立証してくれる結果となった。世にも不思議な判決である」とした。有罪となった裁判で「清廉」「公明」な人格が証明される。そんなことが本当にあるのか。佐野眞一は「巨怪伝」で「理解しにくい正力の倫理観とは、たとえば『読売新聞八十五年史』や御手洗の『正力伝』に、この事件の顛末が、正力の侠気を示す出来事として、むしろ得意気に記述されていることである」と書いている。

佐野眞一 ©文藝春秋