「疑獄事件」で“箔をつけた”三木と正力のその後
三木はこの後しばらく政治の表面から身を引く。報知新聞の社長となり、読売に身売りすることで再び正力とタッグを組む。その後、政界に復帰し、戦時中は東条英機内閣を批判。戦後も反吉田茂の陣頭に立ち、日本自由党や日本民主党の結成に参画した。最後は保守合同まで成し遂げ、保守政界の大立者として病気に倒れるまで活躍した。死亡を伝える1956年7月の新聞記事には「政界に大きな足跡を残す」「自民党主流派の中心失う」などの談話の見出しが並んだ。
正力は読売を最大発行部数を誇る新聞に育て上げる一方、自身も政界入り。科学技術庁長官を務め、「言論と政治に大きな足跡」(1969年10月の死亡記事見出し)を残した。「テレビ、プロ野球、原子力平和利用の父」という見出しもウソではなかった。しかし、2人の訃報は大きな扱いだったが、そこには疑獄で有罪になったことは一言も触れられていない。
「疑獄事件」で人生を転落させた政治家も
三木、正力という功成り名遂げた大物たちが、事件をかえって自分たちの“箔付け”に使った一方で、事件の陰でひっそり姿を消した人物もいた。それは志村清右衛門という政治家。事件当時は新党倶楽部所属の千葉県第1区選出衆院議員だった。1928年10月5日、贈賄側として東京地裁検事局に身柄を収容され、取り調べを受けて容疑を認めた。その後持病の肋膜炎が悪化し、1930年2月の総選挙には3期目の出馬を断念。4月10日、死去した。予審決定後の死亡だったため、公判廷で控訴棄却となった。なぜ彼のことを書くかというと、永田鉄山の時にも触れた筆者の祖父・小池七郎の旧制中学の同級生で奇縁があったからだ。
志村清右衛門は千葉・幕張=当時は馬加(まくわり)とも表記した、現千葉市=の旧家に生まれた。家は豪農で、和菓子店も営んでいたらしい。
旧制千葉中学に進学したが、最上級の5年生の時、津田左右吉教諭(戦後、文化勲章受章)に対する3~5年生計174人による同盟欠席(授業ボイコット)に参加。志村は5人いた5年生の「総務委員」の1人だったが、“事件”を報じた地元紙「東海新聞」は、「志村は剛直、事に屈せず一刀両断の決断力に富み」という人物評価を紹介した。学内でも人望があったことが分かる。同盟欠席は周囲の説得で落着したが、その余波で、志村は小池七郎ら3人と一緒に同級生に対する暴力事件を起こし、4人とも放校処分を受けた。
東京高等商業学校(現一橋大)を卒業して大阪住友銀行に入行。約3年勤務した後、千葉に戻って家業を継ぐ傍ら千葉郡会議員から千葉県会議員に。1924年の衆議院選挙に千葉市・千葉郡から、床次竹二郎が党首の政友本党所属で出馬して当選。その後、床次に従って民政党から新党倶楽部に移っていた。