「4大疑獄事件」で遂に言い渡された「東京市会解散」の異常事態
2つの事件は密接につながっていたうえ、ほかに青物市場幹部の使用料引き上げをめぐる疑惑と、市バスの車種変更に伴う追加予算絡みの疑惑(円太郎事件)もあり、「4大疑獄事件」として追及が進んだ。「特に、板舟権補償と京成電車の市内乗り入れに関する市会の汚職事件は、(関東大震災の)復興計画と関連する事件であり、大半の職員がこれに連座し、市会そのものが内務省によって強制的に解散させられるという、市政に対して大きな影響を与えた事件であった」(「東京百年史 第5巻」)。
新聞報道によれば、予審で有罪とされて起訴されたのは贈収賄と贈賄幇助などの罪で計49人。この間、身柄を勾留された市議が88人中25人に上り、当時の規定から望月圭介内務大臣は同年8月21日、東京市会に解散を命じた。
「市長になったら読売の社長を俺に譲れ」
この事件には大物が2人登場する。どちらも贈賄幇助罪に問われた、衆議院議員でかつては市議、市参事会のメンバーでもあった三木武吉と、読売新聞社長の正力松太郎。
「正力松太郎氏突如収容さる 京電事件の黒幕で市議買収に奔走」(9月17日朝日朝刊)、「市会民政派の大御所 三木代議士収容される」「中島と相並んで黒幕の二巨頭」(同年9月27日朝日夕刊)……。三木は香川県出身。東京専門学校(現早稲田大)を卒業して弁護士から衆院議員となり、東京市議にもなって「市会の大御所」と呼ばれるほど、隠然たる力を持っていた。
正力は富山県出身。東京帝大(現東大)を出て内務省に入り、警察畑を進んだ。警視庁警務部長だった時、難波大助が摂政宮(のちの昭和天皇)をステッキ銃で狙撃した「虎の門事件」が発生。摂政宮にけがはなかったが、責任をとって辞職した。その後、新聞経営を志し、部数減に苦しんでいた読売新聞に社長として乗り込んだ。その際、買収資金の算段を後藤新平に相談。後藤が自宅を担保にするなどして10万円を正力に渡したのは有名な話だ。やがて読売は「満州事変」の追い風と夕刊発行、囲碁・将棋欄の開設などで徐々に部数を伸ばしていく。
三木と正力については、同じ政治評論家・御手洗辰雄が書いた「三木武吉伝」と「正力松太郎・伝記」がある。2人に関わる部分で2冊の記述はほぼ同一。正力の評伝「巨怪伝」で佐野眞一が「伝記」について、「正力がいかに大物であったかを伝えることに腐心している」と指摘したように、2冊の内容を全面的に信じるわけにはいかないが、2人の足跡をたどるのに頼らざるを得ないところがある。そのことを前提に記述を引用する。2人はもともとは政敵といってよかったが、直接会談して、利害が一致する点での協力を約束した。それは、正力がひそかに抱いていた野望――次の東京市長になること。「(三木は)『その代わり、市長になったら読売の社長を俺に譲れ』と言い出し(た)」と「正力松太郎・伝記」は書いている。