「総裁は巨額の負債があり、金がなくて困っているから……」
鴫原亮暢は函館市に居住中、北海道鉄道株式会社取締役渡辺孝平、同社監査役兵藤栄作らと識った。殊に兵藤とは親交があった。渡辺は自分が北海道における造林事業等で功績があったため、函館市役所から北海道庁に表彰方の上申書類が提出されたことを聞知し、親友の兵藤に告げたところ、兵藤は、鴫原が天岡賞勲局総裁の私的秘書役の如き地位になり、賞勲局に出入していることを知っていたので、昭和3年8月4日、和田倉門内の賞勲局で、鴫原に会い、なるべく早く、御大礼前に藍綬褒章を授与されるよう斡旋されたいと依頼、その指示に従い、渡辺は兵藤と共に鴫原に会い、自分の履歴書や功績調査を手渡した。
鴫原から右書類の内示を受け、兵藤らの請託を伝えられた天岡は昭和3年10月、褒章を賜るべきものと認めて奏請し、御裁可を得て、翌11月5日藍綬褒章が授与されたが、天岡は謝礼があると聞くや、「総裁は巨額の負債があり、金がなくて困っているから……」と、すでに渡辺の表彰を申請して来た直後の10月16日、鴫原にその意を含めて催促させ、ついで奏請を了った直後の同月23日、手続を終った旨を告げて、同様の要求をしたという御念の入りようだった。
兵藤は渡辺にその旨を話して自分で1500円を調達し、天岡が褒章綬与に尽力した報酬として、賞勲局で鴫原に手交した。この贈収賄事実も、第一、第二、共に認められて上告棄却、渡辺、兵藤共に原審刑が確定した。
「どうも色々有難う」“勲章を買った”者の末路とは
天岡は貴族院議員藤田謙一とは特に昵懇の間柄だったが、大正15年7月、財政窮乏を訴えて5000円、さらに同年末と昭和2年末に2000円宛の援助を受けていた。藤田は、自分が弘前市における育英事業に貢献したというので、同県庁から主務省に対し、自分を表彰上申することになったことを聞き知るや、天岡が賞勲局総裁の地位にあるのを幸い、なるべく早く叙勲の恩典に浴しようと欲して、昭和3年4月初旬その旨を懇請、天岡は尽力を約束した。昭和3年12月28日藤田は勲三等に叙された。
藤田は大いに感激し、従来の援助のほかに、天岡がとった職務上の尽力に対する謝礼の趣旨を含めて、叙勲直後の同月30日早朝、暮の忙わしい中を、麻布本村町の天岡邸に行き玄関で「どうも色々有難う」と厚い礼を述べて、現金5000円を手渡した。藤田も上告棄却、執行猶予ではあるが有罪の判決が確定して位階勲等を褫奪、同時に、貴族院議員を失格した。氏もすでに亡き人である。
伊勢電鉄取締役熊沢一衛は天岡総裁とは一面識もなかったが、本籍地三重県三重郡河原田村村長が、三重県知事へ、社会事業に功績があるものとして表彰方を上申。ところが、熊沢の知人で賞勲局総裁とは懇親の間柄にある沢田由己弁護士から、表彰方を頼んでやろうといわれた。天岡総裁と沢田弁護士との間にはすでに謝礼の黙契があったらしい。
昭和3年11月20日、陛下が宇治山田市へ行幸の当日、能沢に藍綬褒章を綬賜され、伝達の手続が完了するや、天岡は丹羽錠二郎なる者から5000円の支払要求があり、督促厳重だったので、熊沢からの賄路をその支払にあてようとして、沢田弁護士に依頼、同弁護士は12月7日、「天岡氏が債権者から差抑えられるかも知れぬ」と告げ、謝礼6000円を能沢に懇請して、明治銀行東京支店宛の小切手を受取り、天岡本人へ直接手交した。熊沢は最後審まで争って懲役6ヵ月(3年間執行猶予)で一審懲役2ヵ月(3年間執行猶予、求刑10ヵ月)で一審より重い判決をうけた。